サヨナラゲーム

夕暮れ時のけやき通り商店街は、一日のうちで、いちばんのにぎわいを見せる。

買いもの袋をさげて歩く主婦のサンダルの音や、子供たちの笑い声、そういった日常の物音が、絶えることなくけやき通りを右へ左へと行き交う。

ナイトウ洋菓子店の筋向かいにある果物店からは、店主の「いらっしゃい、いらっしゃい」という、だみ声が聞こえていた。

その店主と世間話をしているのが作蔵で、自分の店にやってくる客の様子をチラチラ見ながら、時々は、自ら接客に入る。

もっとも、客商売には不向きな、いかつい顔を自認している作蔵は、すぐに嫁の鈴子か孫娘の佐和子を呼び寄せる。

だから、ナイトウ洋菓子店の甘味物を買い求めに来た客のほとんどは、女たちのやさしい笑顔に迎えられる。

健二は、そんな忙しい時間帯のナイトウ洋菓子店に、バットとグローブを抱えて帰ってきた。

「ただいまあっ」

勢いよく店の入口から入ろうとすると、果物店にいた作蔵から呼び止められる。

「こらっ、健二。バットをかついだまま、店から入るなっちゅうのが、まだ、わからんのか!」

いったい、この会話が、何回くり返されてきたことだろうか?

「こええ、こええ。一度くらい、孫を笑顔で迎えることは、できないもんかね?」

健二は、ぶつくさ言いながら裏手にまわり、建て付けの悪くなった玄関から家に飛びこんだ。

バットとグラブを二階にある自分の部屋に丁寧に置くと、台所へ行って、冷蔵庫のサイダーをコップに注いでグビグビやった。

店頭では、鈴子と佐和子が頭に三角巾を巻いて、せわしなく立ちまわっている。調理場にいる義男も、額に汗を浮かべて鍋をかきまわしている。

健二は、こうした家族の働く姿を見ると、なんだか、落ち着いた気持ちになる。

商売が繁盛しているうちは、みんなが笑顔でいられる。だから、作蔵が言うように、センチュリーWADAの大河内町への出店は、健二にとっても、絶対に阻止しなければならないことなのかもしれない。

「佐和子、ありがとう。もう、店の方はだいじょうぶよ」

仕事がひと段落したところで鈴子が言ったので、佐和子も三角巾を取って、ようやく、自分の部屋に戻っていった。その時の「じゃあ、お願いね」と、笑顔で答えるしぐさひとつ見ても、健二は、さすが、おれの姉ちゃんだと感心してしまう。

いつだったか、兄弟というものは、下の方が、親から上質の遺伝子を受け継いで優秀になるという話を聞いたことがあったが、内藤家においては反対である。姉が親の上質の遺伝子を根こそぎ持っていってしまったから、弟には、カスしかまわってこなかったと、健二は思っている。

佐和子が店頭からいなくなって、間もなくしてのことだった。聞きおぼえのある若い男の声が、健二の耳に届いた。

「すいません。佐和子さんは、いますか?」

健二には、すぐにわかった。やってきたのは、佐和子の大学の同期で、同じクラスにいる高田秀一(たかだしゅういち)である。

けれども、出迎えようとした健二よりも早く、作蔵が果物店から疾風のように戻ってきた。

「なんじゃ?佐和子なら留守だぞ。菓子がほしいなら、わしが売ってやろう」

健二は、危うくずっこけるところだった。

作蔵は、いつものいかつい顔で秀一をにらみつけている。少し大きめのメガネをかけた、見るからにおとなしそうな秀一は、その迫力に気おされて、「じゃあ、イチゴのショートケーキを・・・」などと、必要のない買いものをさせられている。

秀一が、佐和子目あてで、ナイトウ洋菓子店にやってきているのは、小学生の健二にだってわかる。けれども、作蔵にとっては、それが、はなはだおもしろくないらしい。

「待ってくれ、秀兄ちゃん!姉ちゃんなら、二階にいるんだよ!」

とぼとぼと帰っていく秀一を呼び止めたい健二だが、さすがに、作蔵の前でそうすることはできなかった。

作蔵とちがって、健二は、秀一のことがきらいではない。家に来た時には、宿題を教えてもらえる便利な相手だからだ。

もっとも、秀一が家に上げてもらえるのは、作蔵が老人会の旅行などで家を留守にしている、ごくわずかな機会に限られるのだが。

秀一と入れちがえるようにして、今度は、若菜がやってきた。内藤家での若菜のあつかいは、ほとんど家族同然である。

「こんばんは」という、若菜の少女らしい活発な声がしたとたん、作蔵の態度が、ころりと変わった。

「おう、若菜ちゃん。健二に用かい?」

「ううん、今日は佐和子さんに。ちょっと、宿題を教えてもらいたくて。あっ、これお母さんから松前漬け」

若菜が、そう言って手にさげていたビニール袋を差し出すと、作蔵は、獅子舞のような顔で笑った。

「おうおう、いつもすまんなあ。佐和子なら二階にいるぞ。上がっていきなさい」

まったく、男女差別もはなはだしい。

台所のすみで、飲みかけのサイダーのコップを持ったまま、あ然としている健二に気づいた若菜は、「そこで何してるの?」といぶかしげな表情だ。

「・・・この家では、おまえはお姫様だよ」

健二がぼそりとつぶやくと、若菜は、言葉の意味をそのままとらえたのか、顔を赤くさせた。

「何言ってんのよ?」

作蔵は、鼻歌まじりで、また、筋向かいの果物店へと出て行く。

「このじじい、ひどすぎる・・・」

健二のボヤキなど、作蔵には、届くはずもなかった。

 

夕食までのひと時を、若菜は、佐和子の部屋で過ごしていった。

結局、同じ宿題を抱えていた健二も、折りたたみのテーブルにほおづえをついている若菜のとなりで、佐和子から勉強を教えてもらうことにした。

苦手にしている理科の問題を、佐和子に説明してもらっている時の若菜ときたら、まったく、柄にもなくうっとりしている。

若菜にとって、佐和子はあこがれの的で、将来は、佐和子と同じ高校、同じ大学に進みたいと願っているほどである。

だから、佐和子の言うことに対して、いちいち「さすが佐和子さん」とか、「どうやったら、そんなに勉強ができるようになるんですか?」とか、しまいには、「わたしも、佐和子さんみたいな美人になれたらいいのにな」なんて、勉強とは関係のない方向まで若菜の佐和子への賞賛は続いていく。

「まあ、勉強はともかく、美人は無理だろ」

健二が横から茶々を入れると、「あんたは、だまってて!」と、いきなりグーのパンチが頭に飛んできた。

とにかく、この家では、いつも健二がなぐられ役である。恐ろしいことに、佐和子までが、そんな若菜の行為を見て、ほほえましそうに目を細めているのだから、始末に終えない。

空手の道場やボクシングジムに通っているわけでもないのに、若菜のパンチは、かなり強烈だ。健二は、これ以上の被害拡大を恐れて、だまっているしかなかった。

 

「ああ、やっぱり、佐和子さんはすてきよね」

ナイトウ洋菓子店と青嶋酒店は、すぐ近所にあるというのに、帰りは、どういうわけか、健二が若菜のエスコートをさせられる。

この女にエスコートが必要なのかと、もんくを言いたいところだが、母の鈴子のいつもの厳命である。

「おれの姉ちゃんなんだから、当然だろ」

「そこが、信じられないのよ。どうして、こんなにちがうのよ?」

若菜は、これっぽっちも悪びれることなく、ズケズケとたずねてくる。

本当に気の強い女だと舌打ちしながら、健二は、もうひとりの気の強い女のことを思い出した。

上条美雪が健二たちのクラスに転校してきてから、早くも一週間が過ぎていた。

美雪の教室デビューは、かなりセンセーショナルなものだったが、彼女の正体は、まだまだ、あんなものではなかった。

まず、美雪は、絶対に弱い者いじめを見逃さなかった。

転校二日目の昼休み、今は、若菜に守られている川森恒子のことを、こっそりと、かげで笑っている女子の軍団がいた。

美雪は、彼女たちのかげ口を耳にすると、「言いたいことがあるなら、直接、本人に言えば?たぶん、相手だって、同じ分だけ、あなたたちに言いたいことがあるでしょうけどね。わたしが引きあわせようか?」と、いきなりもちかけてきたのである。

川森恒子の行くところ、常に若菜がいることを知っている彼女たちは、息をのんだ。若菜を相手に、ケンカなどできるはずもない。女子軍団は、すごすごと退散するしかなかった。

だが、美雪のさらに不思議なところは、やりこめたばかりの女子軍団に、今度は、やさしく接していくという点にあった。

美雪は、相手の容姿をよくほめた。美雪のほめ方は実に的確で、ほめられた女子は、照れくさそうにしながらも、休み時間になると、トイレの鏡の前に立ってひとりでニヤニヤしたりしていた。

また、美雪は、相手をよくかばった。ひとりの女子が、書道の時間に墨汁を忘れてきた時には、自分の墨汁をその子にわたして、自分が忘れてきたことにした。

さらに、給食の時間、ほかの女子が、買ってもらったばかりの白いベストにコーヒー牛乳をこぼして泣いていた時には、まだ、会ったこともない家庭科の先生のところへ出向いて、染み抜きを借りてきてくれたりした。

こうした美雪の行動は、少なからず、女子の間で好意的に受け取られ、当初は、センチュリーWADAのまわし者だとされていた彼女の評価は、たちまち一変してしまった。

おもしろくないのは、健二をはじめとする男子である。

美雪は、女子に対してやさしいのと同じくらい、男子に対しては手きびしかった。まともに会話をしてもらえるのは、学級委員長の増田弘樹くらいのもので、とくに、健二には容赦がなかった。

健二と美雪は、何かにつけて相性が悪く、よく口論になった。

健二が、一馬たちと教室でプロレスごっこをしていると、美雪は、「みんなの迷惑になるから、そんなところでやらないでよ」と、平然ともんくを言った。

自習の時間に、健二が勉強せずに遊んでいるのを見れば、「あなたが勉強しないのは勝手だけど、ほかの人は、巻きこまないでよね」と、いかにも正論らしいことを述べ、ホームルームが終わり、一目散に教室から出ようとする健二の背中には、「帰る時だけは、いちばん早いのね」と、いやみをこぼした。

初めのうちは、健二も、いちいち反論していたが、そのうち面倒になってしまった。口では、とうてい美雪には勝てないからである。

口だけではない。美雪は、頭もよく、どの教科も難なくこなした。

今までは、クラスで最も勉強ができると、だれからも認められていたのは、学級委員長の増田弘樹だった。

若菜も、苦手な理科をのぞけば、弘樹と張りあえるほどの頭脳の持ち主だったが、美雪のレベルは、時として、この二人を大きく超えた。

とくに理数系が得意のようで、休み時間の美雪のまわりには、勉強を教えてもらおうとする女子の取り巻きが、毎日のようにできた。

くやしいことに、時には、弘樹までが、美雪に算数の答えを聞きにいったりするものだから、健二の心境は、おだやかではなかった。

「おもしろくねえ。女は、みんな、あいつを神様みたいにたてまつってやがる」

ある日の放課後、不機嫌な健二は、教室のそうじをしながら、すぐとなりで床のモップがけをしている一馬に愚痴をこぼした。

黒板の上に取りつけられたスピーカーからは、そうじの時間にかけられる「G線上のアリア」が、ちょっとこもった音で流れ出ている。

「転校生のくせに、どうして、あんなにえらそうなんだ?おまえも、そう思うだろ?」

健二がバットのようにモップをふると、一馬は、器用にそれをよけながらこたえた。

「まあ、転校生っつーのは、関係ないけどな。おまえ、変なとこで人を差別するなあ」

「しょうがねえだろ。おれたち、ずっとこの町に住んできて、ずっとこの学校に通ってんだ。東京から来たやつなんかに、負けたくねえ」

健二の口ぶりは、作蔵によく似ていた。

センチュリーWADAの大河内町への進出に対して、作蔵は、よく「東京のやつらなんかに、負けてたまるか!」とぼやいた。

それは、大河内町という閉鎖的なこの土地に住むだれもが、少なからず、心のどこかで抱いている感情なのかもしれなかった。

「なんとか、あいつをぎゃふんと言わせることはできないもんかな・・・」

「勉強では、絶対に勝ち目はないな。でも、体育ならわからないぞ」

一馬の言葉に、健二は、身を乗り出した。

「体育?柔道か?レスリングか?たしかに、格闘技なら女に負けねえな」

健二が感心したように言うと、同じく床のモップがけをしていた若菜が、キッとにらみつけてきた。

「女の子相手に暴力?あんたって、サイテーだね」

「なんだと?いたいけな男の子相手に、いつも暴力ふるってるのは、どこのどいつだよ?」

危うくつかみあいになりそうになった二人の間に、太っちょの島村満久が、壁のように割って入った。

「二人とも、ケンカはやめようよ」

いつものように、若菜のかげにかくれて、川森恒子も、こくんこくんとうなずいている。一馬が、あきれたように肩を落とした。

「健二、おまえバカか。おれたちが、いちばん得意にしているのはなんだよ?」

それを聞いて、健二は、ようやく明るい笑顔になった。

「そうか、野球をやりゃあいいんだ!」

「そのとおり。野球なら、絶対に負けないだろ?あいつを、全打席で三振にしてやるんだ」

「おまえ、頭いいなあ。考えたこともなかったぜ」

「・・・おまえの頭が、悪すぎなんだよ。問題は、どうやって、やつをグラウンドに引きずり出すかだ」

一馬は、腕組みをして首をひねった。その視線は、開けた窓から両手を出して、黒板消しを棒でたたいている増田弘樹に向けられている。

「岡村先生に、かけあってみるしかないか。体育の時間に、野球の試合をやらせてほしいって。リトルリーグに入っている、おれたちが言ってもだめだろうが、弘樹なら・・・」

一馬の言葉に、みんなも、いっせいに弘樹の方を見た。

弘樹は、のどをゴホゴホさせながら、黒板消しをたたいていたが、ふり返ったとたん、健二たちの注目を自分が浴びていることに気がついて、けげんな顔をした。

「何、みんな?ぼくの顔に何かついてる?」

白いチョークの粉で、メガネをまっ白にさせている弘樹の姿に、健二と一馬は、ニヤリと笑った。

 

×         ×         ×

 

岡村先生に絶大な尊敬を寄せている弘樹は、健二と一馬の要求を実現させるために、大きな力を発揮してくれた。

おかげで、野球の試合の話が健二たちの間であってから一週間後には、美雪に一矢報いたいとする男子たちの思惑は、現実のものとなった。計画どおり、体育の時間を使っての野球の試合が決定したのだ。

ただ、いちばんの問題となったのは、チームのふり分けをするのに、岡村先生が、健二と一馬を別のチームにしようとしたことだった。

クラスの中で野球の技術が突出している二人を分けるのは、担任として当然のことだったが、そこは、一馬が、「健二の球をとれるのは、オレしかいません」と言って、うまく切り抜けることができた。

ただし、条件があった。健二と一馬がいるチームには、内野を三人、外野を二人しかつけないということであった。

しかし、一馬とバッテリーが組めるのなら、健二に不安は何ひとつなかった。

つまりは、打たせなければいいのである。野球経験の少ないクラスメイトたちを三振にしとめるのは、健二にとって、かんたんなことだったし、たとえ打たれたとしても、後続をおさえれば、負けることは絶対にない。

そして、何よりも、美雪が相手チームになったとわかった時の、健二と一馬の喜びようといったらなかった。

これで、ようやく仕返しができる。これまでのくやしい思いを胸に、全力投球で美雪をふるえあがらせるのだ。

健二は、次の体育の授業が、待ち遠しくてしかたなかった。

それにしても、ジャンケンで決めたとはいえ、健二と一馬のチームには、戦力になりそうな選手が見事にいなかった。

内野三人と外野二人のうちに、なんと、増田弘樹と島村満久、それに川森恒子といった、おなじみの連中が加わっているのだ。あとの二人は、どちらも女子で、これは、一度打たれただけで、たちまちピンチにおちいるという状況である。

また、点を入れるにしても、健二と一馬ががんばる以外にない。相手チームのピッチャーは、スポーツ万能のあの若菜だからだ。

それでも勝つ自信のあった健二は、毎日の練習に磨きをかけ、いよいよ試合当日を迎えた。

明け方まで降っていた小雨が上がり、登校する健二の頭上には、祝福の虹まで出ている。

体育の授業は、四時間目だった。おなかがすいたころだという難点はあったが、今日の健二は、やる気満々である。

試合開始前、ホームベースの前にならんで、あいさつを交わした時の美雪は、うつむきかげんで、いつものような自信に満ちた目はしていなかった。

ますます、うれしくなってにやけている健二に、「手かげんは、しないからね!」と、若菜が強気の態度に出る。

しかし、ほかの場合ならともかく、野球のグラウンドに出たからには、健二と一馬のパワーがまわりを圧倒した。

一馬相手に投げる健二の球は、おもしろいようにバッターを空振りにしとめていった。

威勢のよかった四番バッターの若菜も、最初の打席、バットにあてることはできたものの、ファーストごろでアウト。続くバッターも、次々と健二の前に沈黙させられた。

そして、とうとう、美雪の登場である。

美雪は、その実力が謎で、ライトの九番バッターだったが、バッターボックスに入ると、それなりに様になったかまえをした。

健二は、少し用心しながら、最初の一球を投げた。アウトコース低めのストライクである。

美雪は、動くこともできなかった。健二の球のスピードに、ついてこられないようだ。

これで気をよくした健二は、二球目、かなりインコースに球を寄せた。

美雪は、ハッと驚いたように身を引き、これもストライク。健二は、心の中でガッツポーズを決めた。

「少し手かげんしてやろうか?これじゃ、いつまでたっても点が入らねえだろ」

「余分なおしゃべりはいいから、早く投げてきなさいよ」

からかう健二に、美雪は、むきになって言い返した。

こいつは、おもしろい!

健二は、こんなにむきになった美雪を、初めて見たと思った。やはり、野球についてだけは、どうあがいても健二が有利だ。

得意になった健二の球は、ますます勢いを増し、もう一度投げたインコースの球に、美雪のバットは、かすりもしなかった。

その、三振した美雪のくやしそうな目!

健二は、両手を上げて、ばんざいを三唱したいくらいだった。

こうして、若菜、美雪チームの三振に次ぐ三振で、あっという間に三回が終わった。

とはいえ、健二、一馬チームにも点は入っていない。三番の健二も、四番の一馬も、ヒットを打ったのだが、あとが続かない。若菜の投げる球は、それなりに強力で、健二と一馬以外に打てる者はいなかった。

全体としてのレベルは低いものの、両チームの投手力で試合はテンポよく進み、またたく間に四回の裏が終わって、得点は、〇対〇のまま。

授業の時間だけで九回までやるのは無理だから、四回までにしようと初めから決めてあったので、ここからは延長戦である。

「おい、これじゃあ、引き分けになっちまうぞ」

さすがに、健二は、あせりはじめたが、一馬は、のんきなものである。

「いいじゃんか。上条を、三振にしとめられたんだから。最初から、そいつが目的だろ?」

「そりゃあそうだけど、素人相手に引き分けなんて、みっともねえよ」

どんな状況でも勝ちたい健二は、チームメイトたちに「ふり逃げでもいいから、塁に出ろ」と、活を入れた。

フォアボールでもいい。とにかく、自分の前に走者がほしい。

しかし、五回の表裏が終わっても、両チームに得点は入らなかった。

もう、こうなったら、無理にでも自分がホームランを打つしかないと思った健二は、六回の表、若菜相手に、ここまで真剣にならなければならなくなったことを恥じながら、本当にホームランを打った。まん中に来たストレートを、思い切りレフトへ引っぱったのだ。

「おおっ、健二やったなあ」

ホームに帰ってきた健二をバッターボックスで迎えた一馬は、そう言いながら、どこか皮肉めいた笑いを浮かべた。

「おまえも、ホームランでいいぞ」

「オレは、女にはあまいんだ。三振しとくよ。これで、負けることもないだろう」

二人は、勝つことを当然だと思っていた。一点あれば、もう、勝負はついたも同じである。

ところが、この時のあまい判断がまちがいであったことを、健二と一馬は、すぐに思い知らされることになった。

六回の裏、最初の打者をかんたんに打ち取った健二は、何をまちがえたか、八番打者にフォアボールをあたえてしまった。こちらのミスとはいえ、初めてのランナーである。

ここで迎えたのが、九番打者の美雪だった。

もっとも、今の健二には、かなりの余裕があった。美雪が本当の強打者なら、前の対戦で、二回続けてのインコースを見逃すはずもなく、ヒットにならないまでも、バットにあててきて当然である。

しかし、彼女のスイングは、まったくの的外れで、野球に詳しい健二から素人だと判断されるのも無理はなかった。

健二は、三球で美雪をおさえこもうと思った。遊びは、なしである。

打たせてダブルプレーにしたい気持ちもあったが、そんな芸当は、今の守備陣に期待できそうにない。こうなったら、力ずくのストレートで一気に美雪を粉砕だ。

健二は、二球続けて、どまん中のストライクを投げた。美雪は、身動きもせず、じっと球の行方を目で追いかけるだけだった。

ただ、健二の剛速球に目を白黒させていた最初の打席とはちがって、美雪は、ボールの勢いをこわがってはいなかった。その分、スピードと球筋だけに神経を集中させている。コントロールについては、健二を完全に信頼しているようだ。

(こいつ、すずしい顔しやがって。思いっきり、インに投げこんでやろうか)

健二は、そう考えもした。だが、同じコースで三振にしとめるというのも、小気味よい気がした。

「よし、あと一球だ!」

健二にボールを投げ返す一馬の言葉にも、美雪を三球三振にしたいという気持ちが表れている。それは、次の一球が、ストライクゾーンに入ってくることを予告しているようなものだった。

勝ち誇る健二の目を、美雪は、じっと見すえる。健二も、美雪をにらむように見返した。

(どうあがいても、おまえにおれの球は打てないぜ!)

ほとんど、マンガの主人公気どりで投げた三球目も、やはり、同じどまん中をねらった。球筋を読まれても、打たれることはないと思った。

ところがである。健二の指先から球が離れた瞬間、美雪の目に不敵な光が走った。そして、カアンッという小気味のよい金属音が、校庭に鳴りひびいた。

その時、健二は、何がおこったのかわからなかった。

美雪は、短く持ったバットをふり抜いている。そして健二の投げた球は、一馬のミットの中におさまっていなかった。

「ええっ?」

背後をふり返ると、二人の外野が、大きな弧を描いて飛んでいく白球を、けんめいに追いかけている。

もしも、外野が三人だったら、打球は、センターにキャッチされていたかもしれない。

だが、今、ボールは、だれもいない地面の上にポトリと落ちて、はずみながら、さらに遠くへころがっていく。

打たれたのだと健二が認めるまでには、多少の時間がかかった。それほどまでに、自信満々の球だったのである。

「急げ!」

外野に向かって、一馬がさけぶ。

そして、健二は見た。細く長い足を使って、ダイヤモンドをカモシカのように走る美雪の姿を。

それは、思わず見とれてしまうほどの、まっすぐで力強い美しさだった。

打たれた・・・。完全に打たれた。

たしかに、球筋は、明かしていた。そして、そんな球を投げ続けて、相手に反応できるように仕向けてやったことも事実だった。

だが、それでも、打たれるはずはないと思っていた。慢心と言われれば、それまでである。けれども、慢心よりも、もっと強い心の働きが、健二をそうさせたのかもしれなかった。

それは、意地ということかもしれなかった。あるいは、憎しみということなのかもしれなかった。

同点のランナーが、ホームをふんだ。あろうことか、美雪までが、すでに三塁をまわっている。

球は、ようやく外野から投げ返されてきたが、健二のところまでコロコロところがってくるのがやっとだった。

(いや、そうじゃない・・・)

健二は、今になって心の奥にはっきりと思った。

自分は、やはり、美雪と正面から勝負してみたかったのだ。なめていたはずの相手に、なぜ、そんな気持ちをおこしたのか、いつからそんな気持ちになっていたのか、自分でもわからない。

ただ、美雪というひとりの人間と、同じ立場で正々堂々と戦うことが、今は、とても大切なことのように思えたのだ。

健二の心臓は、バクバクと鳴りはじめた。そして、美雪がホームベースを力強くふみしめた時、腰から力が抜けて、思わず、その場へへたれこんでしまった。

美雪を迎えた若菜とチームメイトは、大きな歓声を上げている。同時にチャイムが鳴り、試合は終了となった。劇的なサヨナラゲームだった。

「お、おいっ、だいじょうぶか?」

心配した一馬が、健二のもとへかけよってきた。健二には、顔を上げる気力もない。

「まさか、野球で負けるとは、思わなかったぜ・・・」

「おまえ、気を抜いただろ?だいたい、その前のフォアからおかしかったぞ」

「う~っ、それを言われると面目ない」

クラスメイトたちが教室へ引き返しはじめても、健二は、まだ動く気にはなれなかった。

一馬だけが自分につきあってくれているので、しかたなしに立ち上がろうとしたが、そこへ、ひとりの足音が近づいてきた。

健二は、ふてくされたように顔を背けた。体をよけた一馬の向こうに立っていたのは、美雪だったからである。

「なんだよ?おれからホームランを打って、そんなにうれしいか?」

いつものように、皮肉のひとつでもこぼしていくのかと思ったら、美雪の顔には、勝ち誇った様子はなかった。

美雪は言った。

「あれは、まぐれよ。三球とも同じコースに投げてくれたから、あたっただけ」

「・・・・・」

「まあ、あたっただけでも、ほめてもらえるかもね。あなた、野球の才能だけはあるのね。すごいボール投げてくるから、驚いちゃったわ」

あまりにも意外な言葉をかけられて、健二は、ひっくり返りそうになった。一馬も、あんぐりと口をあけて「は?」という顔である。

「おまえ、バカにしてんのか?」

「バカになんかしてないわよ。本当のことを、言っただけじゃない」

そう健二に反論すると、美雪は、さっさとその場から立ち去っていった。

あとに残された二人の野球少年は、声も出ない。

(おかしなやつだ・・・)

健二は、思った。そして、知らないうちに、美雪とまともな会話をしていた自分に気づかされた。

淀浜公園で出会ってから、初めてのことだった。