佐和子のシュークリーム

キャンプが終わってからというもの、健二は、もの足りない毎日を送っていた。

一学期の間は、あんなに、夏休みを心待ちにしていたはずなのに、実際に休みに入ってしまうと、騒がしいクラスメイトたちに会えないこともあってか、なんとなくさみしくなる。

もちろん、一馬とは、一日も欠かすことなく、野球の練習に打ちこんでいるが、それでも、心のどこかにぽっかりと穴が開いているようになっているのは、ほかに原因があるためかもしれない。

そう、近ごろ、美雪とまったく顔をあわせなくなった。

幼なじみで同じけやき通りに住んでいる若菜や弘樹たちとは、家族ぐるみで海


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や川に行ったり、となりの米倉市で行われる花火大会に出かけたりと、学校がなくても会う機会が多いのだが、美雪とは、住んでいる町内もちがうために、接点が何もないのだ。

もちろん、健二は、美雪に会いたいなどと思っているわけではない。

なのに、美雪がいないと、ケンカ相手にこまるというか、怒りを燃え立たせてくれるものがないというか、とにかく、毎日に刺激がないのだ。

一馬にそのことを言うと、「そいつは、恋だな」と大笑いされた。

「冗談もいいかげんにしろ!」

思いきりつかみかかったものの、うだるような夏の暑さに、ケンカをする気にもなれない。


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(恋っていうのはなあ・・・!)

健二は、思うのだった。

(恋っていうのは、秀兄ちゃんみたいなのを言うんだ)

健二の姉、佐和子に会うために、ナイトウ洋菓子店にやってくる高田秀一。

作蔵に何度も追い返されながら、それでも、秀一は、何かとナイトウ洋菓子店に顔を出す。

その根性は、たいしたものだ。

健二には、恋というものが、まだよくわからないが、もし、自分が恋をしたら、秀一のようにできるだろうかと思ってしまう。

その秀一は、昨日の午後、健二の部屋にいた。


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作蔵が、老人会の旅行に一泊で出かけてしまったので、健二が、宿題を教えてもらうという名目のもとに呼び寄せたのだ。

健二は、秀一のことがきらいではない。

実は、作蔵以外のみんなは、秀一が家に来るのを歓迎している。

秀一は、大学に入る時に親もとを離れて、米倉市でアパート暮らしをしている。

おっとりとしてやさしくて、礼儀正しい秀一は、義男からも鈴子からも、なかなかのお気に入りである。

佐和子自身がどう思っているかは、今のところはっきりしないが、こうして自宅に来られるのをいやがらないところを見れば、まんざらでもないのかもしれ


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ない。

健二は、勉強を教えてもらいながら、時々、秀一が脱線してする話が好きだった。

秀一は、佐和子と同じ理工学部だったから、理科の話、とりわけ、宇宙とか星の話が得意である。

大学を卒業したら、コンピュータエンジニアか教師になりたいらしく、健二は、もし秀一が教師になったら、授業を受けてみたいと思っていた。

それにしても、大学の夏休みというのは、小学校の夏休みよりもずっと長く、秀一を見ていると、ずいぶんひまそうである。

佐和子の方は、同じ大学の、しかも、同じクラスに通っているはずなのに、講


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義がない時は、家で店の手伝いをしていることが多かったから、時間をもてあましていることなど、まったくない。

今も、新作のお菓子を考案すると言って、店の調理場にこもっている。

「はあ、君の姉さんはいいなあ。あんなに、きれいで頭がよくて。ぼくとは、大ちがいさ」

秀一は、健二の宿題が一息ついたところで、何を思ったか、急にそんなことを言いはじめた。

最近、ため息をついていることが、前よりも多くなったような気がする。

こんな太陽が高く輝く季節に、どうして、ため息ばかりつくのかと、健二は不思議に思う。


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「秀兄ちゃんを見ていると、元気なのか、元気じゃないのか、わからなくなってくるよ」

「へっ、なんで?」

「だってさ、うちに来る時は、ニコニコとうれしそうなのに、おれといる時は、ため息ばっかりついてるじゃないか」

健二から指摘されると、秀一は、「ああ」とうなずいて、

「それはね、恋だよ」

とぬけぬけと言った。

「恋?」

「そう、恋。健二くんは、恋をしていないのかい?」


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秀一は、健二の顔をのぞきこむようにして問いかけてきた。

「そんなもん、するわけないじゃんか」

「そうかなあ?ぼくが小六の時には、好きな子がいたけどなあ」

「へえ~」

「みんな、恥ずかしがって口には出さないけど、同じクラスの男子は、だいたい、だれかのことが好きだったと思うよ。健二くんのクラスメイトだって、本当は、そうなんじゃないのかい?」

健二は、クラスの男子の顔を頭に思い浮かべた。

自分と同じで、野球にしか興味のない一馬。

学級委員長として、がんばればがんばるほど、空まわりばかりしている弘樹。


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それに、食べることしか頭にない満久など・・・。

「ないない。ぜったいない!」

健二は、首を横にふって大笑いした。

あの連中に、恋なんて言葉は、似あわない。

同時に自分にだって、そんな言葉は、無関係だ。

「ちょっと、いい?」

二人で話しこんでいる時に、部屋の外から佐和子の声が聞こえた。

とたんに、秀一の目が輝きだす。

秀一がいる時に、佐和子が健二の部屋にやってくるのは、めずらしいことだ。

何事かと、健二が部屋のドアを開けると、佐和子の手にしたおぼんには、二つ


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のシュークリームとジュースが乗っていた。

「勉強中にごめんなさい。おやつがわりに試食してもらいたくて」

「シュークリームじゃん、ラッキー!」

「ちょっと、入らせてね」

佐和子はそう言うと、ニコニコしながら、健二と秀一の前にシュークリームとジュースをならべていった。

見た目は、ごくふつうのシュークリームだったが、生地の切れ目からあふれ出している生クリームが、ふんわりとつややかで、いかにもうまそうだ。

「わあ、これ、内藤さんが作ったの?」

「趣味みたいなものだけどね。高田くん、正直な感想を聞かせてくれる?」


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「聞かせます、聞かせます。内藤さんになら、なんでもありのままに話します!」

佐和子の差し入れに大感激の秀一は、調子に乗ってシュークリームにぱくついた。

健二も、ぱくついた。

二人して、しばらく口をもぐもぐさせながら、もう何も言うことはない。うますぎると思った。

「すごい、うますぎる!」

秀一は、本当に思ったことをそのままの言葉で言った。

佐和子が、こまったような笑みを浮かべる。


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「ありがとう。でも、そうじゃなくて、細かな感想を教えてもらいたいの。何かが足りないとか、もっと、こうした方がいいとか」

「もしかして、これ、試作品?」

「そう、お店に出す新商品にしたいの」

佐和子の考案したシュークリームとあって、秀一は、ますます大はりきりだ。

「このシュークリームに、うまい以外の感想なんてあるのか?」

健二は首をかしげたが、秀一は真顔になった。

シュークリームの中には、メープル風味の生クリームが入っている。

クリームを包む生地にも、ほんのりとブランデーの味がしみこんでいて、最強の組みあわせと言うほかはない。


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「う~ん、そうだなあ。充分においしいけど、何かが足りないと言われれば、そうかもしれない」

「やっぱり、そう思う?何が足りないのか、わからなくて」

佐和子は、若い人に食べさせるには、このままでいいが、年配者には、味がくどいのではないかと言った。

中のクリームから余計なものを取り除いて、生クリーム本来の味にすると、どこにでもある、あたりまえのシュークリームになってしまう。

あと少しだけ、味をまろやかに飾りつけする何かが、このシュークリームには必要なのだ。

「ようし、それなら、ぼくが、かくし味になるようなものを見つけてくるよ」


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「本当に?高田くん、お菓子作りやったことあるの?」

「えっ、それは、ないんだけど。でも、ただの素人の方が、どんなものがおいしいか、わかるかもしれないよ」

それは、無理だろうと健二は思ったが、秀一の上気した顔を見ると、横やりを入れる気にはなれなかった。

秀一は、本当に佐和子のことが好きなのだ。

佐和子のためになら、不得意なお菓子作りまで一生懸命にやろうとする。

佐和子と話している時の秀一は、心の底から楽しそうで、見ているだけで、こちらまでうれしくなってくる。

もっとも、うれしくなるのは、秀一なら、自分の自慢の姉の相手にふさわしい


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のではないかという思いが、健二の中にあるためかもしれない。

「秀兄ちゃんは、直球派だよな。どうして、そんなに、自分の気持ちをストレートに出せるんだ?」

佐和子が部屋から出て行ったあと、健二は、小声で秀一にたずねてみた。

「ぼく、何か変なこと言ったかな?」

「いや、言ってないよ。でも、秀兄ちゃんが、おれの姉ちゃんのこと好きなのは、よくわかる」

健二がズバリ答えると、秀一は、できそこないの赤鬼のように、たちまち顔を赤くした。

「君の方が、ずっと直球でものを言う気がするけど・・・」


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そう言いながら、秀一はうれしいらしい。

佐和子の家族に自分の気持ちをわかってもらえるのは、うれしいことだ。

「佐和子さんも、気づいているのかな?」

「そりゃあ、決まってるよ。おれでさえ、気づくんだから」

「うはあっ!」

秀一は、赤い顔をますます赤くして、すわっていたざぶとんに顔をうずめてしまった。

「そうかあ、佐和子さんも気づいてくれてるのかあ。いや、まいったなあ・・・」

本人の前では、「内藤さん」と名字で呼んでいたくせに、いつの間にか、「佐


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和子さん」と名前になっていることを、秀一は、自覚しているのだろうか?

ひとりでのろけている秀一にあきれながら、健二は、もう一度たずねた。

「どうして、姉ちゃんに真正面からアタックできるんだ?こわくないのか?断られるかもしれないんだぜ」

秀一は、ざぶとんから顔を離して身をおこした。

その表情は、いたってまじめだった。

「どうしてかな?ぼくは、もともと引っこみ思案な性格なんだけどな。自分を大切にしようと思っているからかな?」

「自分を?」

「そう。きざな言い方かもしれないけど、自分を卑下するのは、よくないと思


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うんだ。ぼくは、平凡な人間だから、せめて、自分で自分をはげまさないとね。だから、毎朝、鏡の前で自分に言い聞かせる。今日こそ、佐和子さんをふり向かせてみせるぞ!ってね」

秀一は、そこまで言うと、「うわあっ、自分で自分の言葉が恥ずかしい!」とさけんで、また、ざぶとんに突っ伏してしまった。

見ている健二は、思わず吹き出しそうになる。

「・・・ただね、今じゃないと、できないことってあると思うんだ。あとになってから、あの時、こうしていればよかったって後悔しても、もう、遅いからね」

秀一は、ざぶとんで声をこもらせながら、そう続けた。


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健二には、秀一の気持ちは、いまひとつわかりかねたが、最後の言葉には、引っかかるものがあった。

今でなければ、できないことがある。

あとから後悔しても遅い・・・。

「ふうん・・・」

健二は、何を思ったか、部屋のすみにあるグラブに手を伸ばした。

たっぷりと使いこんである、少しよれよれのグラブ。

野球に関してだけは、悔いを残したくないという気持ちはある。

でも、ほかのことではどうだろう?

ほかのことでも、野球のように、執念を燃やすことができるだろうか?


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健二には、どうも自信がない。

とくに秀一の言う「恋」については、ほとんど何もできないにちがいなかった。

 

×    ×    ×

 

ツクツクボウシが盛大に鳴きはじめるころになると、空高くいわし雲が見られるようになった。

まだまだ、残暑はきびしかったが、朝晩には、秋の訪れを告げるすずしい風が、ほんの少しだけ感じ取れる瞬間がある。


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二学期の初日、教室にやってきたクラスメイトたちは、まっ黒に日焼けをして、どの顔も元気そうだった。

美雪のまわりには、さっそく、いつもの女子の取り巻きができている。

女子の人気は、今も、美雪と若菜に集中していたが、久しぶりに見る美雪は、若菜よりも、顔色が白くやつれて見えた。

美雪は、登校してきた健二に気がつくと、クラスメイトとの話を切り上げて、そばまでやってきた。

「久しぶり。ケガは、もう治った?」

「おお、とっくだぜ。あんなもの、ケガの内に入らねえよ」

「よかった。傷が残ったら、どうしようって思ってたから」


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美雪は、それだけ言うと、また、取り巻きのところへ戻っていった。

今度は、若菜がやってくる。

「どうしたの?」

「ケガは、だいじょうぶかだってさ。あんなパンチ、どうってことねえのにさ」

「ふうん・・・」

若菜は、何か考えるような目で美雪をながめている。

それから、急に話を変えた。

「今度、商店街で秋祭りやるよね。わたし、福引のマスコットガールになるかもしれないんだ」


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「へえ~、おまえが?マスコットボーイのまちがいだろ?」

とたんに、目から火が出るような若菜のパンチが、健二の脳天を直撃した。

「だれが、マスコットボーイよ!ガールに決まってんでしょ!」

「痛ってえなあ。おまえのパンチの方が、よっぽど効くよ」

若菜は、健二のその言葉を聞くと、急いで手を引っこめた。

美雪が健二のケガを心配していたのにくらべ、自分の行為が恥ずかしくなってしまったのかもしれない。

「ごめん。痛すぎた?」

「なんだよ?急にしおらしくなって」

「・・・・・」


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若菜は、顔を赤くしている。

「べ、別にィ。とにかくゥ、わたしも、マスコットとして認められたってこと!やってみたかったんだよね、あれ。ほら、佐和子さんが何回もやってるじゃない?」

けやき通り商店街では、毎年、九月の中旬に秋祭りを行なっている。

小さな子供たちが、ダンボールで作ったおみこしを担いだり、道を歩行者天国にして、組合で出店をかまえたり、この時ばかりは、けやき通り商店街にかつての活気が戻ってくる。

たしかに、佐和子は、小学生のころから、秋祭りの福引マスコットガールを何度もやってきた。


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佐和子を崇拝している若菜がはしゃぐのも、当然のことかもしれない。

しかし、今年の秋祭りは、どうも様子がおかしかった。

センチュリーWADAの出店問題によって、一時は、秋祭り自体が行なわれるのか、あやしくなっていたのだ。

八月に入ると、和田コーポレーションは、地元商店を通常よりも好待遇でテナントとして受け入れることを、正式に発表した。

これにより、統率のとれていなかった駅前通り商店街からは、和田コーポレーションとのテナント契約に走る店舗が、続出している。

この一大事に、秋祭りなど、やっていていいのか?

そんな声が、けやき通り商店街のあちらこちらで、ささやかれるようになった


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のも、無理はなかった。

けれども、センチュリーWADAの出店と秋祭りに関係はない。

むしろ、こんな時だからこそ、盛大に秋祭りをやって、わたしたちの商店街に活気を取り戻すべきだ。

ある日の組合の会合で、そう反論したのは、なんと、健二の母の鈴子だった。

この日、いつも会合に出ている作蔵が、体の不調を訴えたため、組合の会合には、かわりに鈴子が出席していた。

鈴子は、集まってきたけやき通り商店街の店主たちを前に、堂々と言った。

「明るい話題がひとつもない今だからこそ、秋祭りをやるべきではないでしょうか?和田コーポレーションの動向に、いちいちふりまわされて、やるべきこ


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ともできないようになってしまったら、戦う前にこちらが負けです」

秋祭りは、どの店舗にとっても、大切なかき入れ時である。

だれも、反論を唱える者は、いなかった。

結局、鈴子の意見に動かされた、けやき通り商店街組合は、例年どおり、秋祭りを開催することになった。

だが、それでも、かげで不服を唱える者はいる。

秋祭りひとつをめぐっても、意見が分かれてしまうくらい、今のけやき通り商店街の結束力は、弱まってきているのだった。

作蔵は、嫁である鈴子が、組合で自らの信念を貫いたことに、かなり満足しているようだった。


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そもそも、その場に作蔵がいたら、秋祭りをやめようなどという意見は出なかったはずだ。

だが、近ごろの作蔵は、体調もいまひとつで、ひとりで何かを考えていることが多くなった。

あの藤村和助が、ナイトウ洋菓子店にやってきた日から、ずっとである。

健二の目から見て、心なしか、以前より勢いがなくなったようにも見える。

その作蔵が、ある日の夕方、とつぜん、健二に言った。

「おい、健二。わしとキャッチボールをやるか」

作蔵が、健二をキャッチボールに誘うのは、久しぶりである。

「いいよ。どこでやる?」


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「淀川の河川敷だ。散歩がてら、出かけるぞ」

健二は、不思議に思った。

キャッチボールなら、淀浜公園で十分なのに、と首をかしげた。

淀浜公園は、かつて、和田コーポレーションへの抗議集会を開いた場所である。

あそこなら、淀川の河川敷よりずっと広くて、ボールが川に流れる心配もない。

だが、作蔵は、どうしても、淀川の河川敷に行きたいようだった。

淀川は、大河内町ととなりの米倉市を隔てる、二級河川である。

川幅も、それほど広くなく、河川敷と言っても、野球の試合ができるようなも


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のではない。

けやき通りから海岸通りへ出て歩いていくと、やがて淀浜公園にたどり着き、それから、西団地のそばを通る。

西団地は、高度成長期のころに建てられた古い団地で、その外れは、淀川に面している。

かつては、おばけ工場や工業団地で働く、若い家族でにぎわっていた西団地も、今では、その半分近くが空き家になっていた。

「よし、健二、行くぞ」

堤防の急な階段を下りた場所で、健二と作蔵は、キャッチボールをはじめた。

一年ほど前までは、作蔵に向かって全力で投げることができた健二も、今で


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は、そういうわけにはいかない。

中学へ入ったら、キャッチボールそのものが、できなくなってしまうかもしれなかった。

「おまえ、ずいぶん力が強くなったな。毎日、筋トレやってるのか?」

「あたりまえだろ。それに、もう、おれ六年生だぜ」

「そうか、頼もしいことを言ってくれるじゃないか。わしは、おまえが甲子園に出るまでは、死なないからな」

作蔵の口から「甲子園」という言葉が出たのを聞いて、健二は、ハッとした。

ふだんの作蔵は、なぜか、甲子園の話をしたがらない。

甲子園まで、あとわずかというところで逃したくやしさからなのか、それと


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も、ほかに理由があるのか。

とにかく、作蔵は、今、はっきりと「甲子園」を口にした。

健二は、答えた。

「そうかんたんに、行けるはずないだろ。中学、高校と進めば、野球のうまいやつは、いくらでもいるよ」

「そうだなあ。一馬のやつとバッテリーが組めるのも、今のうちかもしれんなあ・・・」

作蔵は、かるくため息をついた。

一馬とバッテリーが組めなくなる?

健二は、今まで、そういうことを真剣に考えたことがなかった。


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けれども、それは、十分にありえることだ。

一馬は、キャッチャーとして最高の男だと、健二は思っている。

中学へ行き、自分より実力のあるピッチャーが現れたとしたら、一馬は、そいつとバッテリーを組まされるようになるだろう。

「それにな、高校へ行ったら、もしかすると、おたがい敵同士になるかもしれんぞ」

「いやなこと言うなよ、じいちゃん。まだ、先の話だぜ」

「ああ、そうだな。今が、いちばんいいかもな。純粋に野球を楽しんでいられる、今だけがな」

今日の作蔵は、どうかしていると、健二は思った。


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作蔵は、キャッチボールをしながら、語り出した。

「ここは、わしが子供のころ、よくキャッチボールをやった場所だ。ここだと、ちょっと、手もとが狂っただけで、ボールが川に流れていっちまうだろう?だから、キャッチボールをやるだけでも、真剣にならざるをえなかった。ここで、こうしておまえ相手にボールを投げとると、当時のことを思い出すわい」

「まだ、淀浜公園がなかったんだ?」

「あんなものができたのは、ずっとあとになってからのことだ。わしらのころは、満足な練習場所もなかった。いつも、広い空き地でボールを追いかけていたもんだ。いつか、甲子園に行こうってな。本気でそれを信じとった」


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「・・・・・」

作蔵は、手にしたボールをじっと見つめた。

「ボールの感触が、手のひらになじまなくなっとる。歳をとっちまったもんだ」

そう言って、健二に投げ返した。

「だが、甲子園は遠かった。わしは、旧制中学の三年の夏に、それを、体中で実感したよ」

「でも、県大会で決勝まで行ったんだろ。あと一歩だったじゃんか」

「その一歩が、とてつもなく遠いのよ。何事もそうだ。とくにスポーツの世界では、頭ひとつどころか、髪の毛一本分抜け出すために、途方もない練習をつ


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まなきゃならん」

健二は、うなずいた。

どんなに練習をしたつもりになっても、勝たなければ意味がない。

負けるということは、結局、それまでの練習を無にしたも同じなのだ。

「しかしな、どんなに練習を積んだとしても、負けることがある。野球は、チームで戦うものだ。おまえひとりがどんなに強くなったとしても、それだけで、チーム全体を勝たせることはできん」

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ?」

「それを自分で考えるんだ。わしには、最後まで、それがわからんかった。だから負けたのよ」


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作蔵は、そう言ってニヤリと笑った。

だが、その笑いには、いつものようなふてぶてしさはなく、どこかさみしく悲しげに見えた。

「今回の反対運動も、そこがわからなければ、失敗するじゃろうな。仮に、わしらに大金があって、おばけ工場を全部買い取ったとしても、連盟のみんなが喜ぶわけじゃない。センチュリーWADAにテナントとして入りたいと思っとる者は、けやき通りにもいる。みんな、口に出さんだけじゃ」

健二は、作蔵の言葉を意外に思った。

作蔵は、現実をちゃんとふまえているのだ。

ただ、やみくもに、センチュリーWADAの出店に反対を唱えているわけでは


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ない。

けれども、そうであるならば、作蔵は、これからの連盟の活動をどのようなものにしたいと考えているのだろう?

はたして、作蔵たちの戦いに勝ち目はあるのだろうか?

 

健二が、ふと顔を上げると、土手の上を歩く人影が目に入った。

その人影の背中の向こうに、西団地が夕日を浴びている。

「美雪・・・?」

健二は、ドキリとした。

人影は、まちがいなく美雪である。


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会いたいと思っていたわけでもないのに、どうして、こんなに胸が騒ぐのか。

美雪は、白いスーパーの買いもの袋を手にさげ、前かがみで歩いていく。

そう言えば、美雪は、西団地に住んでいるそうだと、だれかが話していたのを聞いたことがあった。

父親が、和田コーポレーションの幹部である美雪のことだから、どこかの豪邸にでも住んでいるのだろうと考えていた健二にしてみれば、それは、意外な事実だった。

学校にいる時の強気な態度とはちがって、少し背中をまるめた美雪は、どこか頼りなく小さく見える。

(あいつ、いつも、買いものなんかして帰るのか?おふくろがいるだろう


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に・・・)

健二は、美雪のうしろ姿に、そんな思いをめぐらせていたが、急に感電したかのように息をのんだ。

キャンプ初日に遅刻してきた、美雪の様子を思い出したのだ。

あの時に感じた違和感の理由が、今になって、ようやくわかった。

そう、美雪には、母親の存在が見えないのだ。

父親と二人で、岡村先生に頭を下げている美雪には、彼女をあと押しする、母性の力が感じ取れなかった。

母親がいれば、したくに手間取ることはなかった。

母親がいれば、もっと早くにおきていたかもしれない。


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そんな、ぼんやりとした思いが、自分でも気づかないうちに、健二をとまどわせていたのだ。

(ふんっ、あいつの家の事情なんて、知るかよ)

キャッチボールをする健二の腕に力がこもったが、それに反して、球は、ゆるい弧を描いた。

「ボールが死んでいるぞ!」と、作蔵が怒鳴る。

健二は、落ち着かなかった。

美雪を呼び止めたい気持ちがありながら、それを認めることはできなかった。

美雪は、団地の中へと姿を消していった。

とうとう、健二には、気づかないままだった。


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