大橋さんは、すぐ怒る。
雅美が声をかけると、たいていは、「わああああっ」とさけんで暴れ出す。足腰が棒のように細くなった老人だから、たいした力はないけれど、それでも、雅美は大橋さんが苦手だった。周囲のみんなも同じだと思う。
雅美は、高校でボランティア部に所属している。入部して、まだ三ヶ月。一年生は、雅美のほかに男子が二人だけだったから、先輩たちのいやがる大橋さんの応対は、ほとんど雅美ひとりが引き受けていた。
雅美のいるボランティア部は、月に二度、学校からほど近くにある「あけぼの苑」という特別養護老人施設に研修に出かけている。
研修と言っても、入居者相手に手品をやったり、紙芝居を見せたりする程度のかんたんなものだったが、そこでの経験は、将来、介護士を目指す者にとっては貴重だった。
雅美も、高校を卒業したら、専門学校に進んで介護士の仕事につきたいと願っていた。
今から将来の明確な目標ができているのはありがたいことだったが、それは、死んだ祖母の影響である。
祖母は、他界するまでの二年半を老人ホームで過ごした。父の単身赴任と母の仕事が重なり、自宅介護ができなくなったことで、祖母は、老人ホームへの入居を承諾した。詳しい経緯は知らないが、母からそう聞いている。
祖母は、雅美が面会に行くたびに、「ここはいいところだよう。本当に、みんな、よくしてくれて」と、くり返し言った。また、施設を訪れるボランティアの人たちについても、よく話してくれた。
そうしたボランティアの中には、現在、雅美が通っている高校のボランティア部も含まれていた。だから、雅美は、この高校を受験し、このボランティア部に入った。
雅美が大橋さんと出会ったのは、ボランティア部に入って、最初の「あけぼの苑」への訪問が行われた時である。はじめは、無口なふつうの認知症患者にしか見えなかった。
けれども、大橋さんは、ほかの認知症患者とはちがっていた。見境なく暴れてしまうのである。
それに、面会人や出入り業者、医者などが施設を訪れると、後ろにくっついてエレベーターから表へ出ようとする。エレベーターのボタンには、入居者が勝手に乗ることができないよう暗証番号が施されていたが、その乗り降りには、いつも注意が必要である。
大橋さんは、記憶にない人に会うと、決まって「あんた、山口さん?」とたずねかけてくる。そして、相手がちがうと答えると、「あんたは、だれだ!」と言って怒りはじめる。
大橋さんにとって「山口さん」がどんな人にあたるのか、雅美には想像するべくもないが、そんな時の大橋さんは、手がつけられない。介護士に取り押さえられても、「はなせ!」とわめいて手足をバタバタとふりまわす。
おかげで、介護士は、あっちこっちたたかれて、ひどいありさまだ。
「あんた、山口さん?」
ある日、雅美がボランティア部の仲間と「あけぼの苑」を訪れると、大橋さんがいきなり近寄ってきてそうたずねた。
ほうら来たと思ったが、あいにく、その時は近くに介護士がひとりもいなかった。いつものように「ちがいます」と答えたら、暴れ出すに決まっている。雅美は、困ってしまった。
「あんた、山口さんかね?」
大橋さんは、食い入るように雅美の顔を見つめて答えを待っている。何も答えなくても暴れ出すんじゃないかと思った雅美は、思わず口を開いてしまった。
「・・・そうですよ。わたしは、山口ですよ」
こう答えたのは、おそらく雅美が最初なのではなかったか。
探し求めている山口さんが目の前に現れた時、大橋さんがどんな反応を示すのか、雅美には見当もつかなかった。ただ、今、暴れられるのは困るので、口から出まかせを言ったまでである。
大橋さんは、はあっと大きなため息をついたあと、じっと雅美の顔を見つめて、目をパチパチさせた。そして、急に顔をゆがめたかと思うと、大粒の涙をポロポロこぼして泣いた。
ううっ、ううっ・・・とまるで子犬がうめいているような声を出して、大橋さんは、冷たい床に突っ伏してしまった。
思いがけない事態に、雅美はうろたえるしかなかったが、すぐにひとりの女性の介護士が来て大橋さんを立たせると、なだめながら、本人の部屋へつれていってくれた。
「驚いたでしょう?」
介護士は、大橋さんを落ち着かせてから、まだ、動揺が冷めやらない雅美のところまで戻ってきて言った。
「いえ、大丈夫です。すいません、わたし・・・」
「いいのよ。大橋さんをなだめるやり方がわかって、大助かりだわ」
介護士は、機敏な笑みを浮かべて首を横にふると、手に持っていた深緑色のメガネケースを雅美に手わたした。
「悪いけど、今日の帰りまで持っていてもらえるかしら?大橋さんがそうしろって言うのよ」
雅美がメガネケースを開けると、中にはメガネのかわりに鉛筆やボールペンがつめこまれていた。鉛筆は、黒だけでなく色物まで混じっている。
「筆箱?」
「なんでメガネケースなのかよくわからないけど、いつもそうして持っているのよ。あなたに使ってもらいたいみたいなの」
「鉛筆をですか?」
「たぶん、絵を描いてもらいたいんだと思うわ。まあ、そのまま持ってるだけでいいわよ。帰りがけにわたしがあずかって、大橋さんに返すから」
介護士は、鈴木さんといった。「あけぼの苑」を訪れるたびに顔を合わせているから、雅美も、名前だけはおぼえていた。三十代前半くらいのベテラン介護士で、てきぱきとした仕事ぶりが、雅美のあこがれをかきたてていた。
その日の大橋さんは、本当におとなしかった。
部屋に戻っていた大橋さんは、ボランティア部の演目である紙芝居の途中で、鈴木さんにつれられてフロアーに出てきた。そして、入居者がならんでいる長いすの最後尾にすわって、熱心に紙芝居を見ていた。
とくに雅美が語りをはじめた時は、となりにいる鈴木さんを見て、うれしそうに雅美を指さしたりした。こんな大橋さんを見たのは、はじめてだ。
その時、雅美は、大橋さんのひとみに映っているものが自分ではなく、ほかの人物、つまり、山口さんなのではないかと思った。その肝心の山口さんが、いったいどんな人物なのかはわからなかったが、きっと大橋さんにとって、大切な人なのだろう。
雅美は、紙芝居の台本を読みながら、どこか上の空だった。
大橋さんの中にある思い出が、本人の口から明るみに出ることは、もう二度とないだろう。そう考えると、雅美は、見たこともない山口さんのことをどうしても知りたいと思った。
どういうわけか、それが、自分にとって、とても大切なことであるように思えてならないのだった。
× × ×
秋になった。受験勉強にいそがしい三年生が、夏休みを境にボランティア部を卒業し、二年生と一年生だけが残った。
ここから来年の春、新入生が入ってくるまで、ボランティア部は、少ない人数で部を切り盛りしなければならない。そして、そんな新しいボランティア部が最初に直面する大仕事が「あけぼの苑」の遠足だった。
遠足と言っても、実際には、ほとんどマイクロバスで移動する社会科見学のようなものだったが、このバスでの移動が一大事だった。何しろ入居者は、施設の中ばかりにいるから、表の環境になじんでいない。バスにゆられて体調をくずしてしまう場合もある。
そこで、ボランティア部としても、遠足が少しでもスムーズに行われるよう、毎年、その手伝いに自主的に参加しているのである。
遠足は、九月下旬の日曜日に行われることになった。暑すぎず寒すぎず、そんな気候のよい時期を選んでのイベントである。
この日に備えて、雅美たちは、役割分担やだれがどの入居者に付き添うかといった打ち合わせを、事細かに行ってきた。
当日を迎えると、心配された雨も降らず、あざやかな秋晴れである。雅美たちボランティア部は、朝早くから「あけぼの苑」へと集合し、準備にいそがしかった。
楽しみにしていた遠足とあって、入居者の顔が急に十歳も若返って見えると思うのは、雅美の錯覚だろうか。
大橋さんはと言うと、あの「山口さん?」事件以来、静かなもので、この日も、せかせかと働く雅美を端からながめて機嫌がいい。
鈴木さんの話によれば、あれ以降、施設内で暴れることもほとんどなくなったようだ。
それはそれで、とても望ましいことだったが、雅美には、なんとなく後ろめたい気持ちがあった。大橋さんは、自分のことを山口さんだと思っているのだ。
なぜ、まったくの別人をそう思い込めるのか、そこが認知症だと言われればそれまでだが、雅美には、不可解でならなかった。
バスが出発すると、施設に残る職員が総出で手をふって見送ってくれた。
大橋さんは、窓際のシートの上でゴトゴトゆられながら、時々、ちゃんと雅美がとなりにいるかどうかを確認する。それから、安心したように窓の向こうを流れる秋の景色に見入っていた。
あちらの山際、こちらの海辺へとバスは走り、途中であらかじめ協力をお願いしてあった「小山園」という食堂に立ち寄った。ここで、昼食をとるためである。
食事ひとつとっても、介護する側は悪戦苦闘の連続である。
しかし、大橋さんの担当である雅美は、ほかのボランティア部員に比べ、ずいぶん楽な思いをした。大橋さんは、もともとひとりで歩ける人だったから、どこかへ行ってしまわないよう、ちゃんと見張ってさえすれば、あとは手を貸す必要はなかったからである。
その大橋さんが、右往左往している周囲の人々を残して、どこかへ出かけようとする。
「大橋さん、どこ行くんですか?」
雅美がたずねると、大橋さんは、「ああ」と言って、施設の窓の外をながめた。興味を抱いた雅美は、鈴木さんに断って、大橋さんとともに食堂から出てみた。
外は風もなく、秋のさわやかな日差しを受けて、Tシャツを着た背中が、じんわりと温かくなる。
大橋さんは、何かに導かれるように、しっかりとした足どりで歩いた。行き先は、「小山園」の建物の裏手。そこに、両岸を土手で仕切られた二級河川があった。
大橋さんは、土手の上までやってくると、対岸にある大きな青い屋根の自動車部品会社をじっと見つめた。そして、腹の底からしぼり出すような深いため息をもらした。
「あの建物が、どうかしたんですか?」
答えるはずはないと思いつつも、一応、聞いてみる。大橋さんは、仁王立ちのまま、時々、思い出したように、「ああ」と低くうなった。
雅美には、大橋さんが何をしたいのか、まるでわからなかった。それで、「あけぼの苑」に戻ってきてから、鈴木さんにこのことを話してみた。
「ああ、あれ、大橋さんが元気だったころに働いていらした会社の工場よ。大橋さん、社長さんだったんだって」
鈴木さんは、雅美がまったく予期していなかった事実を明かした。
鈴木さんによれば、大橋さんは、一代で築き上げた会社を、何か深い事情があって息子たちに譲ったのだそうだ。その直後から認知症がはじまり、家族に付き添われて「あけぼの苑」にやってきた。七年前のことだった。
症状は悪化の一途をたどるばかりで、今となっては、かくしゃくとしていた昔の面影は微塵もない。
大橋さんを訪ねてくるのは、会社を継いでいる長男夫婦だけで、週に一度の割合で見舞いに来るのだという。
雅美は、この話を聞いた時、自分の祖母のことを思い出した。祖母も、最後には軽い認知症を患っていた。
息を引き取る間際、病院のベッドの上でカッと目を見開き、悲鳴をあげながら雅美の腕を引っぱった。
離れたくない、いっしょに来てほしい!そう祖母から訴えかけられた気がして、雅美は、恐ろしさのあまり、思わず、その手をふりほどこうとした。そして、そんな行動をとろうとした自分が情けなくなった。
あの手の感触は、今でも思い出すことができる。冷たく硬い、それは、死の感触だった。
そして、「あけぼの苑」の遠足から三ヶ月が過ぎた十二月の末のこと、雅美は、思いがけず祖母の真実を知ることになった。
× × ×
その日、雅美の家は、一年の大そうじで朝からバタバタしていた。父の仕事納めの翌日で、明日は、正月用品の買出しに行くことになっている。
雅美は、自分の部屋のそうじが終わってからは、祖母の部屋にひきこもって、他界以来ほとんど手つかずのままの遺品の整理を母から任されていた。
祖母の部屋は、一階の玄関横の六畳間だったが、そこは、ふすまを開けると同時に、いつも枯れた草のようなにおいがする。それが祖母のにおいであり、雅美は、このにおいをかぐとほっとした気持ちになった。
雅美は、開けた押入れの中に頭を突っ込んで、中にある品々を引っぱり出していった。ダンボール箱に入った古い人形や衣類、色のあせてしまった文庫本など。
雅美は、それらの中に数冊の日記帳があるのを発見した。祖母が日記をつけていたのをまったく知らなかった雅美は、そこにどんなことが書かれているのか、非常に興味を持った。
少し開いて読んでみたが、基本的には、日々のできごとの羅列で、たいしたことは書いてない。
しかし、読み進めていくうちに、様子が変わりはじめた。
祖母は、老人ホームに入ってほしいと父の口から切り出された時のことを詳細に書いていた。けっして、そのことをうらんでいるといった調子の文章にはなっていない。
しかし、あるページまでめくったところで、雅美は、激しい衝撃を受けた。
そこには、使っていた万年筆も折れよとばかりの強い力で、グチャグチャに線を書きなぐった祖母の筆跡が克明に残されていた。次のページも。そのまた、次のページにも。
同時に雅美は、書きなぐられたインクの横に茶色くなった別の染みがあることに気がついた。雅美は、すぐに察した。涙だ。これは、祖母の流した涙のあとにちがいなかった。
やるせない思いを筆圧にこめて、せっかく書きつづってきた日記帳をメチャメチャにしてしまった祖母の怒り。
雅美は、火傷でもしたように、その日記帳を押入れに放り込んだ。それから、すぐに思い直して、自分の部屋へ持ち込み、机のいちばん下の引き出しに入れ鍵をかけた。
心臓がドキドキする。この日記帳を両親に見せるわけにはいかない。特に実の息子である父の目に触れたら、父は、一生、祖母を老人ホームに入れたことを後悔するだろう。
祖母は、病院で他界した。二度と自宅に帰ることなく、老人ホームと病院という二つの施設を行き来したまま、逝ってしまったのだ。
× × ×
それからの雅美は、どうにも胸のつかえが取れない毎日を送ることになった。
学校で授業を受けている時も、ボランティア部の活動をしている時も、油断をすると、祖母の日記帳が眼前にちらついてくる。それは、洗濯で落ちないシャツの染みのように、雅美の心にこびりついていた。
だれにも相談はできない。もちろん、両親に言えるはずがない。
そんな雅美の変化に気づいてくれたのは、意外にも二週間に一度しか会わない「あけぼの苑」の鈴木さんだった。
「どうしちゃったの?今日は、なんだか元気がないじゃない?」
新年最初の「あけぼの苑」訪問の日、鈴木さんは、雅美と顔を合わせたとたん、そう言った。虚を突かれた雅美だったが、かえって毎日顔を合わせている人たちよりも、時々、会う人の方が相手の変化を見つけやすいのかもしれないと思い直した。
鈴木さんは、せわしなく仕事を続けながら、ほとんど雅美の方に顔を向けなかった。その横顔を見ているうちに、雅美は、鈴木さんに日記帳のことを話してみようと思い立った。
仕事のあとで少し時間をいただけないかと頼んでみると、鈴木さんは、怪訝な顔をしながらも、すぐに了解してくれた。
家では主婦をやっている鈴木さんに、仕事後の貴重な時間を割いてもらうのは悪い気がしたが、ほかに相談する相手がいない雅美にとっては、ありがたいかぎりである。
雅美は、家に帰りが少し遅くなることを電話で告げ、ボランティア部員たちにも、先に帰ってもらった。
仕事が終わると、鈴木さんは、「あけぼの苑」のすぐ近くにある喫茶店に雅美を案内してくれた。雅美は、あたえられている時間は少ないと考え、単刀直入に話の核心に入った。
祖母の日記のことを語っていくうちに、雅美の目には、みるみる涙がたまってきた。泣くつもりなどまるでなかったから、自分で自分の涙が意外だったが、鈴木さんは、黙って雅美の話を最後まで聞いてくれた。
「そっか。それは、つらいね」
鈴木さんは、ポツリと言った。
「わたしにとっても、つらい。わたしたちが世話している入居者さんたちの多くが、あなたのおばあさんと同じ思いをしているとしたら、とてもつらい」
雅美は、それを聞いて、ああ、いけないことを鈴木さんに話してしまったと思った。
介護士である鈴木さんにとって、雅美の祖母の話は、確かに切ないだろう。日々、入居者のためを思って働いている介護士には、少しでも入居者に自宅にいるのと同じ安らいだ生活を送ってもらいたいという願いがある。
しかし、施設は施設、自宅ではないのだ。
どんなに、入居者のためと思って行動しても、言うことを聞いてくれない老人はたくさんいる。小さな子供のようになって、わざと介護士を困らせる者もいる。
そうした中で、業務は嵐のようにいそがしく、介護士と看護師との間には、相手の不手際をなじるような微妙な対立の構造があったりする。
日々のストレスがたまりにたまって、弱者である入居者に虐待を加えるといった事件があとを絶たないのは、このためかもしれない。
「あの、ごめんなさい・・・」
雅美は、うなだれて鈴木さんにあやまった。
「ううん、あやまることなんかないわよ。それより、あなたは、どうしたらその苦しい思いがなくなるのかって思ってるんでしょ?」
鈴木さんは、素直にうなずく雅美の顔をのぞきこむように見ていたが、ふと、屈託のない笑みを浮かべて、「あなた、本気で介護士になりたい?」とたずねてきた。
「ええ?・・・あっ、はい、そのつもりです」
「なれるわよ、あなたなら。ううん、なってもらわなきゃならない。あなたみたいな人こそ、介護士の職につくべきだと、わたしは思うわ」
鈴木さんは、注文してあったコーヒーをすすると、さらに話を続けた。
「入居している人の心をわかっている人が介護する。それが、いちばん正しいことよ。あなたが、心に受けた傷は、かんたんには消えないかもしれない。でも、あなたがあなたのおばあさんのことを思うのと同じ気持ちで入居者に接していけば、きっと、あなたのおばあさんも喜ぶと思うな」
鈴木さんは、それから、大橋さんの話をした。大橋さんの心をはじめて開かせたのが雅美だったと。
大橋さんは、かつて企業の社長になるほどの人だったけれども、何らかの事情で仕事から手を引かなければならなくなった。でも、そのことが大橋さんを認知症にさせたわけではない。
大橋さんの認知症の本当の原因は、嫁いだ先の長女の子供、つまり、かわいがっていた孫娘の死にあった。
「山口香苗さんという名前だとうかがっている。本当は、こういうことは外部の人に話しちゃいけないんだけどね。あなたは特別だから。大橋さんがたずねてた山口さんというのは、お孫さんのことなのよ。わたしも聞いた話だけど、お孫さんは、亡くなった当時、高校生でずいぶん絵がうまかったそうなの。大学も、そっち系のところを目指してたみたいなんだけど、交通事故で亡くなられてね。それからだって。大橋さんの言動がおかしくなりはじめたのは」
鈴木さんは、淡々と語り続けたが、いつしか声が小さくなり、眉をひそめるようになった。
「あなたに筆箱をわたしたじゃない?あれは、やっぱり絵を描いてほしいってことだと思うわ。お孫さんの姿をあなたに重ね合わせているのよ。大橋さんにとっては、お孫さんだけが、心のよりどころだったんだと思うわ」
雅美は、言葉を失った。大橋さんにそんな事情があるとは知らなかったし、そこまで深く大橋さんのことを考えたこともなかった。
でも、考えてみれば、「あけぼの苑」の入居者には、それぞれの事情があるはずなのだ。
そこには、人には言えない家族への思いや不満が山積しているだろうし、それでも、家に帰りたい、施設から出たいという欲求にさいなまれている。皆がつらく苦しい中で、生き抜いている。
鈴木さんは、だからこそ、そうした人々の気持ちが少しでもわかる雅美に、介護士になれと言う。
「何の答えにも、なっていないかもしれないけど・・・」と前置きした上で、最後に鈴木さんは自分に言い聞かせるように語った。
「これ以上、あなたのおばあさんみたいな人を出してはいけないってことね。わかってるつもりなんだけどね。仕事だと思うと、わからなくなるのよね。今日は、わたしの方が相談に乗ってもらったみたいな気がするわ」
× × ×
年が明けて、寒い毎日が続いた。ちょうど冷蔵庫から流れ出す冷気のような高いすじ雲が空にかかり、日中でも、指先がかじかむほどの冷たさである。
大橋さんが行方不明になっているのを雅美が知ったのは、そんなある日の午後の授業中だった。突然、校庭の片隅にある広報のスピーカーから、大橋さんの名前が流れ出したのを聞いて、雅美は、飛び上がらんばかりに驚いた。
広報は、大橋さんが行方不明になっていることを告げ、それから、着ているものや身体的特徴などを列挙した。
雅美には、ピンと来るものがあった。きっと、施設からエレベーターを使って脱走したのだ。大橋さんは、いつも、外へ出たがっていた。
雅美は、いてもたってもいられなかった。
できることなら、授業を無視して教室から飛び出したいくらいだったが、そんなわけにもいかず、放課後になるのを辛抱強く待った。そして、終礼が終わるやいなや、かばんを持って一目散に外へかけ出した。
発見されたという広報がないところから、大橋さんは、まだ行方不明のままらしい。「あけぼの苑」まで自転車を飛ばした雅美は、その玄関先で、これから大橋さんの捜索に出ようとする鈴木さんと鉢合わせになった。
「ああ、いいところに来てくれたわ。いっしょに大橋さんを捜してくれる?」
「いつからいなくなったんですか?」
「お昼は、いっしょに食べているから、そのあとね。ほかの職員が先に捜しに出ているの」
雅美は、自転車と学校のかばんを「あけぼの苑」で預かってもらい、そのまま鈴木さんと、日が西にかたむきはじめた冬の空気の中にかけ足で戻っていった。
しばらく二人つれだって、大橋さんを捜しまわったが、いっこうに埒が明かなかった。そこで、携帯番号を教え合い、途中から分かれて別々の方角を行くことになった。
冬の夕暮れは早い。もうすぐ日が落ちる時間だし、そうなれば、気温は一気に下がってしまう。大橋さんは、いつも暖かい施設の中にいるから、それほどの厚着はしていないはずだ。風邪を引くくらいならまだしも、肺炎にでもなったら、大ごとである。
それにしても、端からでも見るからに認知症とわかる大橋さんのことだ。知らない人々の中に入っていれば、すぐに通報されていてもおかしくない。それで、ふと思いついた。
(ああ、あの土手・・・)
雅美の目に、夕暮れの土手にぽつんとすわって、自分の築いた会社をながめている大橋さんの姿が思い浮かんだ。
なつかしい思い出の場所にすわって、大橋さんは、山口香苗さんがやってくるのを待っているのではないだろうか。絶対に迎えに来るはずのない孫娘。
けれども、もし、彼女が迎えに来るようなことがあったとしたら、大橋さんは、生と死の境界を越えて、あちら側へと行ってしまうかもしれない。そこまで考えがいたった時、雅美は、風のように走り出していた。
行ってはいけない!行ってはいけないよ、大橋さん!
雅美は、今はっきりと思った。大橋さんには、まだ、帰るところがある。家でもない。施設でもない。帰りを待っている人がいるというのは、とても大切なことだ。その帰るところがどこなのかという問題は、この際、関係ないのではないか。
目的の場所は、雅美の足でなら、十分ほどでたどり着けた。
案の定、大橋さんは、「小山園」の裏の土手にひとりでひざを抱えてすわっていた。その小さなまるまった背中を発見したとたん、雅美は、全身から力が抜けていくような気がした。
「大橋さーんっ!」
後ろから明るく声をかけると、大橋さんは、ゆっくりとふり返った。そして、うれしそうに「ああ、ああ」と笑った。
雅美は、やはり大橋さんは、自分に孫娘の面影を反映させているのだと思った。その瞬間、ああ、筆と画用紙を持ってくればよかったと後悔した。
絵を描いてあげたかったのだ。できれば、今、目の前にある風景がいい。大橋さんが、手塩にかけて築き上げた会社の建物が、夕闇に映える冬の景色だ。
ところが、驚いたことに、筆と画用紙は、大橋さんが持っていた。絵を描くのが上手だった孫娘が、きっとここへ来てくれるはずだと、大橋さんは信じていたのだろうか。
大橋さんが差し出した筆と画用紙を手にとって、雅美は、絵を描きはじめた。正直言って、美術は、あまり得意ではない。でも、これまででいちばん心のこもった絵を描いて、大橋さんにあげようと雅美は思った。
五分ほどで描いたラフスケッチは、思いがけず、なかなかのできばえだった。もしかしたら、香苗さんが、そっと手助けをしてくれたのかもしれないと思うほどに仕上がっていた。
大橋さんは、目を皿のように見開いて、雅美が運ぶ筆先に視線を走らせている。
やがて、顔や手の甲に冷たいものが当たりはじめた。ポツリ、ポツリと空から白い粉化粧のようなものが落ちてくる。
「あ・・・雪?」
雅美は、夕闇に沈もうとする天空に顔を向けてつぶやいた。大橋さんも顔を上げた。
「ああ、ああ」
笑っている。大橋さんが、楽しそうにほほ笑んでいる。そして、その目の下には、涙とも雪のあとともとれない水滴がついていた。
雅美は、描き終えた絵を大橋さんにわたして、「大橋さん、帰ろっか?」と語りかけた。
大橋さんは、笑ったままの顔で立ち上がった。雅美が腕に手を添えてあげると、トコリトコリとゆっくり歩き出した。
「あ、鈴木さん?いました。今、いっしょに歩いてます。・・・ええ、そうです。場所は・・・」
携帯電話の向こうで、鈴木さんが歓声をあげている。すぐに迎えにいくという。
けれども、雅美は、このまま「あけぼの苑」まで大橋さんと歩き続けるのもいいと思った。こんなふうにだれかを支え、支えられ歩んでいけたら。
雅美は、死んだ祖母と歩いているような気がした。
今、本当に祖母が自分の横にいたとしたら、なんて言うだろう?やはり、最後まで家に帰れなかった無念さを語るのだろうか?それとも、にこにこと笑いながら、介護士を目指している雅美のことを、がんばりなさいと祝福してくれるだろうか?
雅美は、物思いにふけりながら歩き続けた。真冬の冷たさの中で、それでも、心だけは春のように温かかった。
車のヘッドライトが、前方から近づいてくる。助手席の窓から、鈴木さんが大きく手をふっていた。
ほっとため息をついた雅美が、もう一度、空を見上げると、一面に白く深い雲が立ち込めている。幾億千の雪が、無言のまま舞い降りていた。
雅美のほほに、冷たく触れる白い結晶。明日の朝は、白銀の世界かもしれない。