桜咲く・・・

中学三年生の成美が、その男の子と出会ったのは、まだ梅雨明け前の七月初旬のことだった。

学校からの帰り道にある、ブランコと砂場だけの公園で、男の子は、ひとりで遊んでいた。夕暮れ前のことである。

成美は、家路をたどりながら、何気なく、その男の子の後ろ姿を見守っていたが、公園の片隅の桜の木を見上げながら、何か一生懸命にしゃべっている様子が奇妙だったので、ふと、歩みを止めた。

そんな成美の気配に、気がついたのだろう。男の子は、ふり返って、公園の入口にいる成美の顔をじっと見た。成美も、男の子の顔を見た。

「おねえちゃん、おもしろいもの見せてあげるよ」

まさか、話しかけられるとは思っていなかった成美は、少し驚きながらも、素直に公園に入っていった。

「ほら」

男の子の手のひらには、死んだセミが乗っている。今年、はじめて目にするセミだった。

「死んじゃってるじゃない」

「ううん、死んでなんかないよ」

男の子が、両手を空に向かって広げると、それまでピクリともしなかったセミが、ブウンと羽音をたてて舞い上がった。成美の見まちがえだったのだろうか。

(今のセミ、たしかに死んでいたと思ったのに・・・)

セミの飛び去った方角には、強烈な光を放つ、夏の白い太陽が浮かんでいる。そのまぶしさにさえぎられて、セミの行方は、空気に溶け込むように、わからなくなってしまった。

「おねえちゃん、いっしょに遊んでよ」

気がつくと、男の子が、屈託のない笑顔をこちらへ向けていた。成美は、思わず「いいよ」と答えてしまった。答えてから、自分の声が自分のものでないような気がした。

二人は、砂場で山を作ったり、ブランコをゆらしたりして遊んだ。時間にしたら、ほんの三十分くらいのことである。

これが、男の子との最初の出会いとなった。

成美が、「名前は、なんていうの?」と問うと、男の子は、「ヒロくん」とだけ答えた。自分で自分のことを「ヒロくん」と呼ぶ。ヒロシなのか、そのままヒロでいいのか、それとも、もっと別の名前なのかわからない。名字も聞き出せなかったが、成美は、「ヒロくん」でいいことにした。

 

それからというもの、成美が学校からの帰りに公園をのぞきこむと、たいていは、ヒロくんがひとりで遊んでいた。いつも、友達はいなかった。彼にとっては、成美が唯一の友達であるらしかった。

「また、ひとりなの?」

そう声をかけながら歩み寄っていくと、ヒロくんは、にっこり笑ってふり返る。

成美は、その笑顔にいつも胸をつかれた。四年前に死んだ弟の面影が、ヒロくんの笑顔の中にあった。

 

×    ×    ×

 

成美の通う中学校と自宅の間には、市が管理している墓地がある。とても大きな墓地で、母さんの話では、成美の生まれる前に、市の全域に点在していた墓地を一ヶ所に集めてできたものだという。

成美の家は、中学校からそれほど遠くなかったから、通学路の半分は、この市営墓地のわきを通ることになる。

墓地のまわりには、およそ三百本の桜の木があり、春には、お弁当を持った親子づれが花見に来たり、お盆の時期には、焼きとうもろこしや、わたあめの屋台まで立ちならぶくらいだから、気味が悪いという感じはまるでない。

母さんいわく、墓地ができる前よりも、ずっと地域が明るくにぎやかになったそうだ。

成美がヒロくんと遊ぶ公園は、この墓地の片すみにある。名称を、桜公園といった。すぐとなりには交番もあり、何かと安心していられたから、日中は、母親につれられた小さな子供たちでにぎわうことになる。

成美の両親は、六歳で死んだ弟の墓を、この市営墓地の中に作った。自宅から歩いて三分のその墓には、祖父や祖母もいっしょに埋葬されている。

たとえこの世からいなくなっても、少しでもそばにいたい。両親の胸には、死んだ家族に対するそんな思いがあるのだろう。

成美も、足しげく墓参りをした。線香はなくても、学校帰りにバケツにくんだ水で墓のそうじをしたりした。また、休日には、家族でお供えをしにいったりもした。

 

夏休み直前の日曜日だった。

お盆の時期を迎えた市営墓地は、たくさんの家族づれで、お祭りのようなさわがしさだった。

訪れる人々は、それをいいものとしていた。こんなににぎやかなら、故人も寂しくないだろう。墓だからといって、湿っぽくするのはよくない。そんなふうに考えていた。

成美たちも、家族で墓参りをした。墓参りがすむと、その足で広い墓地の中を散策した。みんなで桜の木かげに腰を下ろして、持ってきたお弁当を食べる予定だった。

桜公園は、人であふれかえるほどだったので、成美たちは、墓の入口から続く桜並木のたもとにビニールシートを敷いて、その上に腰を下ろした。

公園に、ヒロくんの姿はなかった。夕暮れ時、人気がなくなってから行くと、必ずと言ってよいほど遊んでいるので、もしかしたら、いっしょにお弁当を食べられるかもしれないと、成美は、少し期待をしていたのだ。

「暑いわねえ。こうにぎやかなら、マコトも寂しくないでしょう」

水筒のお茶を四つの紙コップに注ぎながら、母さんが、弟の名を口に出した。熱気を含んだそよ風に、木漏れ日がザワザワとゆれた。

「お弁当、卵焼きばかりだなあ」

父さんが、開けた弁当箱の中をのぞきこんで笑った。卵焼きは、マコトの好物だった。

成美も、黄色いひまわり畑のような、お弁当を見て笑った。笑いながら、ヒロくんが顔を出さないものかと、あたりを気にし続けていた。

 

×    ×    ×

 

マコトが死んだのも、今日のような、暑い日のことだった。ちょっとした事故と言ってもよかった。

そのころ、母さんは仕事に出ていて、幼稚園から帰ってきたマコトの面倒は、まだ健在だった祖母が見ていた。

その祖母が、日中、急な胸の不調を訴え、家で倒れたことがあった。家には、ほかにだれもいなく、幼いマコトは、せめて成美に急を告げようとしたのだろう。炎天下の中、そのころ、姉の通っていた小学校目指して家から飛び出し、途中で熱中症に倒れたのである。

通りがかりの人が、道端にうずくまっているマコトを発見して、すぐに救急車を呼んでくれたが、一晩続いた高熱は、とうとう下がることはなく、そのまま病院で亡くなった。急性の熱射病と医師は診断した。

マコトと同じく、救急車で病院に搬送された祖母は、病床で孫の死をひどく悔やんだ。肝心な時に、なぜ、わたしは倒れたりしたんだと、自分を責めて責め抜いた。父さんと母さんは、そんなことはないとなぐさめたが、祖母としては、無念でならなかったのだろう。

間もなくして、その祖母も他界してしまった。最期まで、マコトに会いに行くのだとうわ言のようにつぶやいていた。

母さんは、こうした一連のできごとがあった後、仕事をやめた。やはり、もう少しマコトが大きくなるまで、仕事はよせばよかったという思いがあるらしかった。

マコトの棺の前で、いちばん泣きくずれていたのは、母さんである。その頭には、この四年間で、白いものが一気に目立つようになった。

 

×    ×    ×

 

昼食の後、再び、墓地の中を散策しながら、家路についた成美たちは、途中で風変わりな墓石を見つけた。白色のまるい墓石のまん中に、「いっしょにあそぼ」という文字が刻まれている。

すみに「山口家」とあるが、塔婆はなかった。墓には、ポテトチップやビスケットなどのお菓子、それにミニカーが供えられている。

「ああ、このお宅も、小さな男の子が亡くなっているのね・・・」

母さんの声が、少しふるえて聞こえた。「うん」と答えたきり、父さんは何も言わない。自然と、三人とも手を合わせた。

成美は、手を合わせながら、「いっしょにあそぼ」という言葉を心の中で繰り返していた。何かが、引っかかった。そして、ヒロくんが、いつも使う言葉だと気がついた。

「おねえちゃん、いっしょに遊んでよ」

ヒロくんは、成美の顔を見るたび、いつも、そう言って笑うのだ。

 

×    ×    ×

 

夏休みに入った。

受験生である成美にとっては、補講や塾にいそがしい、暑くてつらい夏休みのはじまりだった。志望校は、すでに決まっているものの、将来の夢が、まったく思い描けない成美にとって、受験勉強は、苦しみ以外の何ものでもなかった。

父さんと母さんは、「まだ、時間はあるから、将来のことは、ゆっくり決めればいい」と、口をそろえたように言った。

成美も、たしかにそう思う。思いながら、それでも、わたしは、大人になったら何になりたいのだろうと考えてしまう。

 

毎朝が、盛大なクマゼミの合唱ではじまり、ひそやかなヒグラシの音色とともに、日が暮れた。日中は、アスファルトで舗装された道路から、陽炎が立ち上るほどの暑さである。

夕立もよくやってきた。激しい雨が、雷鳴とともに降っている時、成美は、自分の部屋の窓からのぞむ、水しぶきで煙った景色をながめながら、ヒロくんがぬれてはいないかと心配した。そして、そんな時は、雨があがるのを待って、必ず桜公園へと出かけていった。

桜公園には、ヒロくんがいる時もあったし、いない時もあった。しかし、たとえいたとしても、ずぶぬれになっていたことは一度もなく、タオルを持ってきた成美は、いつも肩すかしを食った。

「おまわりさんに入れてもらうんだよ」

ある時、ヒロくんは、そう言って、桜公園のとなりの交番を指さした。

「あそこのおまわりさん、お父さんのお友だちなんだって」

なるほど、そういうことだったのかと、成美は納得した。納得はしたが、いくら、知り合いの警官が近くにいるからといって、こんな小さな子どもを、毎日のように、ひとりきりにしておく親がいるだろうかとも思った。

もしも、炎天下で熱中症になったりしたら、どうするつもりだろう?マコトの事故のことが、成美の頭をよぎる。

成美は、しだいに、水筒を持参して桜公園に行くようになった。ヒロくんも、ステンレス製の水筒を首から肩にかけてはいたが、それは、あまりにも小さく、おもちゃのようだった。

母さんに、このことを話すと、「まったく、親は、何をやってるのかしらねえ」と、かなりあきれていた。母さんの怒りは、もっともだった。怒るのが、ふつうだろう。

しかし、成美は、どこかおかしいとも思った。これだけ多くの時間をヒロくんと過ごしてきて、親の顔が、まったく見えてこないというのは、おかしすぎる。

(この子は、もしかして・・・)

疑問が大きくなるにつれて、成美の頭には、この前見つけた子供の墓のことが思いおこされてならなかった。「いっしょにあそぼ」と刻まれた子供の墓。

もしかして、この子は、あの墓の子と、なんらかのつながりがあるのではないだろうか?いや、この子自身が、墓の下に眠る子供の霊なのではないか?

気味が悪いとは思わなかった。もしも、この世にそんなことがあるとするなら、それもいい。

成美は思うのだ。わたしは、死んでしまったマコトをヒロくんに重ね合わせている。生きている時には、与えてあげることができなかった姉としての優しさを、あのヒロくんにわけてあげたいのだと。

 

×    ×    ×

 

八月に入ると、日本列島のあちこちで記録的な猛暑が続いた。夜になっても暑さは引かず、寝苦しい毎日である。

この町いちばんの花火大会は、八月の中旬にあった。今年は受験生だから、花火見物は無理だと思っていたら、思いがけず、両親から行ってもいいという許可が出た。ただ、一緒に出かける友達がいなかった。

「じゃあ、久しぶりに家族で行く?」

あまり気は進まなかったが、母さんのその言葉に従うことにした。

 

当日になると、成美は、思い切って、タンスの上の衣装箱にしまってあった浴衣を着てみた。去年の夏に買ってもらった浴衣が、もう小さくなっているのには驚いたが、中学生最後の夏だと思うと、少しは大事にしたい花火大会の夜だった。

渋滞の中、車での移動は不可能なので、打ち上げ会場となる一級河川の河川敷まで、下駄をつっかけて歩いていく。遠くで打ち上がる花火の音が空全体にとどろき、その度に、にぎやかな歓声がおこる。

「はぐれないようにしろよ」

父さんは、小さな子供を引率しているかのような口ぶりだ。成美は、こっそりと苦笑いしながら、前へ後ろへと行き来する、暑い人ごみの中を歩いていった。

道の両わきには、たくさんの夜店が立ちならび、りんご飴の甘いにおいや、焼きいかのしょう油の香りを漂わせている。「あっ」という子どもの声がして、花火の煙が流れる青黒い星空に、黄色い風船が上っていった。

 

本当に自分が迷子になってしまったと気づいたのは、花火会場のすぐ手前になってからだった。行き交う人々の中に知った顔はなく、父さんと母さんの姿も見えなかった。途中にあったアクセサリーの夜店をのぞいたのが、失敗だった。

もっとも、全員が携帯電話を持っていたから、すぐに連絡をとってみる。父さんと母さんは、すでに河川敷に下りているらしかった。

「すぐに追いかけるよ」

そう言って、先を急いだ成美だったが、その時、偶然にも見つけたのだった。道端の金魚すくいの前に、ひとりでたたずんでいる男の子。ヒロくんだ・・・。

「金魚すくい、やりたいの?」

後ろから声をかけると、ヒロくんは、びっくりしたように、こちらを向いた。その顔が、いつもとちがって、ひどく悲しげだったので、成美は、ハッと息をのんだ。

「どうしたの?」

「おねえちゃん、この子たち、みんな死んじゃうよ」

ヒロくんは、ビニールプールの中を泳ぐ金魚たちを指さした。プールの底には、浮き輪をつけて笑っている男の子と女の子の絵が描かれていたが、それが、水の中に沈んでいる子供のように見えて、成美は、思わず視線をそらせた。

「なぜ、死んじゃうの?」

「だって、金魚すくいの金魚って、もっと大きなお魚のえさなんだよ。今すくってあげないと、みんな食べられちゃうんだよ」

成美は驚いた。金魚すくいの金魚を見て、その命の行く末を考えたことが、はたして自分にあっただろうか。

しかし、言われてみれば、ヒロくんの言葉通りなのだった。ここにいる金魚たちは、長くは生きられない運命を、すでに背負っている。その現実を、成美とヒロくんは知り、金魚たちは知らないでいる。なぜ、こんな理不尽なことがありえるのだろう。

けれども、そこで成美は気づいた。わたし自身にも、この金魚たちと同じことが言えるのではないかということに。

だれにも、マコトの死は予測できなかった。もしも、あの日の弟の運命を知ることのできる者がいたとしたら、あんな事故はおこらなかったかもしれない。

「おねえちゃんが、すくってあげる」

成美は、そう言ってサイフから小銭を取り出し、金魚すくいをはじめた。ヒロくんにも、やらせてあげた。

二人は、一匹でも多くの命を助けようとがんばったが、なかなか、思うように金魚をすくうことはできなかった。

頭にねじり鉢巻をした五十がらみの店主は、二人が苦戦している様子を見ると、最後に数匹の金魚を器用にすくって、椀に入れてくれた。そして、それを均等に二つのビニール袋に移し替えた。

手渡された小さなビニール袋には、それぞれ三匹ずつの金魚が入っていた。

「特別サービスだよ。えさは、一日二回。水道水を使う場合は、中和剤を入れなさい」

と、店主は言った。

成美は、残された金魚たちを見下ろしているヒロくんの手をにぎって、「ありがとうございます」と礼を言った。そして、そのまま小走りにかけ出した。

強引に腕を引っぱられて、ヒロくんは走った。成美も、どんどんペースを上げた。

何かが、後ろから追いかけてくる。生と死を隔てる黒い穴が、二人を引き離すように迫ってくる。なぜか、そんな気がしてならなかった。

ドーンという轟音をとどろかせながら、尺玉の花火が上がった。あまりに大きな音だったので、成美はわれに返り、ようやく立ち止まった。

「金魚、だいじょうぶ?」

成美の問いに、ヒロくんは、コクリとうなずいた。ゆれるビニール袋の水の中で、生きるチャンスを与えられた金魚たちは、心なしか、ほっとしているように見えた。

ぼんやりとした火薬のにおいが漂う中、成美とヒロくんは、裸電球の明かりに照らし出された金魚たちの表情を、静かに見守った。

再び、花火が打ち上がる。今度は、仕掛け花火だった。

「お父さんとお母さんを、探してあげるね」

成美がそう言うと、ヒロくんは、いやいやをするように首を横にふって、「お父さんもお母さんも、ここにはいないよ」と言った。

「いっしょに来たんじゃないの?」

「うん」

「じゃあ、おうちに帰ろ。心配してるよ」

ヒロくんは、地面に視線を落としたまま、もじもじしていたが、やがて思いつめたように口を開いた。

「ぼくね、おねえちゃんと、もう会えないの」

急にその口調が大人びて聞こえたので、成美は、意味もなく、背筋がぞっとするような不安を抱いた。

「どうして?」

「ぼくね、遠くに行っちゃうんだよ。だから、今日でお別れしなくちゃならないの」

ヒロくんは、手にしていた金魚のビニール袋をしげしげとながめていたが、やがて、それを成美の前に差し出した。

「この子たち、おねえちゃんにあげる。ぼく、飼えないから。みんな、死んじゃうから」

仕掛け花火が激しくなっていくのと同時に、周囲の歓声が、渦を巻くように成美の体を取り囲んだ。

ヒロくんが、人さし指を空に向ける。つられるように顔を上げた成美は、そこにはじける光の競演を目の当たりにした。一瞬にして消えていくはかない炎。

成美は、赤や緑のまばゆい光の中に、溶け込みそうになる自分を感じた。めまいとともに、フッと、手もとが軽くなったような気がする。

 

気がつくと、ヒロくんの姿がなかった。成美は、金魚の袋を持ったまま、ひとり、人ごみの中に立ちつくしていた。

「ダメじゃないか、成美。勝手な行動しちゃあ」

なかなか、河川敷にやってこない娘を心配して、探しにきたのだろう。父さんが、怖い顔で駆け寄ってきた。母さんも、一緒だった。

「あれ、ヒロくんは?」

「ヒロくん?」

「今、ここにいた。・・・あれ・・・あれ?」

父さんは、あきれたように、「おまえ、寝ぼけてるんじゃないのか?」と笑った。母さんは、成美の手もとを見て不満げだ。

「もう、ひとりで二回も金魚すくいしてきたの?小さな子供じゃあるまいし。成美が、ちゃんと面倒を見るのよ」

そう言われて、成美は、自分の手もとに視線を落とした。

大きな水滴のような、水の世界を泳ぎまわる金魚たち。彼女は、たしかに二つの金魚の袋を手にさげていたのだ。

 

×    ×    ×

 

あれ以来、成美は、ヒロくんと会っていない。何度、桜公園に足を運んでみても、ヒロくんの姿はなかった。

夏が終わりに近づいたころ、成美は、思いきって、桜公園のとなりの交番を訪ねた。ヒロくんの消息を知りたい一心だった。

「ああ、あの子なら引っ越していったよ。両親と一緒にね。父親の郷里に戻ると言ってたなあ。君、よくあの子と遊んであげていた子だろう?」

応対に出たのは、どうやら、ヒロくんが言っていた知り合いの警官であるらしかった。この交番の中では、いちばんの年配者のようである。

「山口さんというんだけどね。知らないかな?よくお菓子やジュースが供えられた墓があったのを」

「・・・・・」

「変わった墓でね。一目で子供のものとわかる墓だった。関係のない他人までが、時々、手を合わせていったりしていたよ」

成美は絶句した。やはり、あのヒロくんと「いっしょにあそぼ」と刻まれた墓には、つながりがあったのだ。ただし、事実は、成美が思い浮かべていたものとはちがっていた。

警官の話によれば、あの墓は、ヒロくんの双子の弟のものであり、一年前に白血病で亡くなったのだという。ヒロくんは、病院へお見舞いに行くたびに、弟から「元気になったら、いっしょにあそぼ」と口ぐせのように声をかけられていたらしい。

結局、その約束が果たされることはなかったが、弟の葬儀が済んでからというもの、兄は、時々、母親の目を盗んで桜公園に来るようになった。その理由を警官が問うと、「お母さんが喜ぶから」と答えたという。

おそらく、次男を失って悲しむ母親のために、弟の眠る墓のそばにいてあげようというつもりだったのだろう。そのたびに、警官は母親に電話をかけて、母親がヒロくんを迎えに来るといったことが続いていたようだ。

「だが、あの墓も、郷里に移転したそうだ。わたしも、細かい事情までは知らないが、長年、実家とはうまくいっていなかったらしい。次男が亡くなって、やっと、和解できたみたいだ。みんな、相当こたえたんだろうなあ」

警官は、そう言って、何か思いをめぐらせるように表の景色に目をやった。

会話が途絶えると、ツクツクボウシの鳴き声が耳の中に残った。ジクジクと、それは、遠くなったり近くなったりしながら、成美の中で響いていた。

 

成美は、警官に礼を言うと、すぐに墓の前に急いだ。警官の言葉どおり、そこは、ただのさら地になっていた。

成美は、その殺風景な光景を見下ろしながら、崩れるように、その場にしゃがみこんだ。そして、やせた自分のひざに顔をうずめた。

夕暮れ時の墓地に人影はなく、ただ、ゴオォォッという風の音にまじって、遠く風鈴の音色が耳をかすめていた。空には、長い飛行機雲が、ゆるい弧を描きながら東から西へと伸びていく。

成美は、ふと、自分の涙に気がついた。泣くつもりなどなかったから、自分で自分の感情の高ぶりに驚かされた。ヒロくんに、もう会えないのだと思うと、胸の奥に深く悲しみが突き刺さったように感じた。それは、マコトが死んだ時の感覚と似ていた。

やはり、成美は、ヒロくんにマコトの面影を重ね合わせていたのだった。成美は、マコトに会うような思いで、ヒロくんに接していた。そして、彼は、マコトと同じように、成美の手の届かない世界へと旅立ってしまった。

なぜ、別れは、いつも、あっけなくやってくるのだろう?こうなるとわかっていたなら、もっと、できることがあったはずなのに。

桜公園の木の下で、家族といっしょに、お弁当を食べさせてあげたかった。できることなら、海や山へも連れていってあげたかった。生前、マコトにできなかったことを、もっと、ヒロくんにやってあげたかった。

成美は、顔を上げた。顔を上げても、涙は、後から後からこぼれて、とどまるところを知らなかった。

成美は、ヒロくんに、いつまでも自分のことを覚えていてほしいと思った。雨の日も風の日も、わたしは、けっしてあなたを忘れない。だから、時々でいい。あなたも、わたしのことを思い出してほしいと。

ゆっくりと吹く風の中、成美は、小さな子どものように、しだいに声をあげて泣いた。いつまでも、いつまでも、彼女は、生きることに必死な秋の虫のように、のどをからしながら、泣き続けた。

 

×    ×    ×

 

その後、半年以上がたち、成美は、例の警官から、ヒロくんとその家族が郷里で元気に暮らしていることを聞かされた。下校途中の成美を見かけた警官が、わざわざ教えてくれたのだった。

ヒロくんの両親は、子どもがお世話になったお礼にと、近況を記した手紙をそえて、警官の自宅に季節はずれの大きなりんごを送ってくれたのだそうだ。

手紙には、成美のことも書かれていたらしい。成美がヒロくんの面倒を見ていたことは、警官から両親に伝わっていたようだ。

「君が、いちばんあの子の遊び相手になってあげていたのだから、持っていきなさい。手紙にも、そうしてほしいと書かれている」

警官は、そう言って成美と両親の分まで、りんごを袋に入れて持たせてくれた。

冬が、終わりを告げようとしていた。志望校に無事合格し、成美は、この四月から高校生になる。

ヒロくんとすくった六匹の金魚は、いずれも元気に育っていた。

この金魚が大きくなるころ、わたしは、ヒロくんと再会できるのではないだろうか。成美の胸には、なぜか、そんな予感があった。

山口家の墓があった場所には、今、すみれが芽を出している。墓地の管理人が、種をまいたのかもしれない。

冬の間は、さすがに人通りの少なかった市営墓地にも、日に日に増していく太陽の温かさとともに、本来の活気が戻ってきた。

 

 ある日、買い物の帰りに、成美が市営墓地の中を歩いていると、桜公園で遊んでいる男の子の姿が目に入った。その背中が、ヒロくんとよく似ていたので、成美は、思わず声をかけそうになった。

けれども、近くのベンチにすわっていた母親の声に、男の子がふり返ると、それは、まったくの別人だった。

「おかあさん、のどかわいた」

男の子は、そう言って母親のひざに抱きつき、水筒の水をねだった。飲み終わった後、口からこぼれた水をハンカチでふいてもらっている、そのうれしそうにはしゃぐ顔を見つめながら、成美は、静かな笑みを浮かべた。

成美は、この男の子が、いつまでも元気に大きくなっていくことを願った。そして、ふと思った。

(ああ、幼稚園の先生になりたいな・・・)

 今ごろ、ヒロくんの家族は、どうしているだろう?新しい町では、ヒロくんも同じ年ごろの友達と元気に遊んでいるだろうか。

成美は、買い物袋を手から下げたまま、ちらほらとつぼみのつきはじめた桜の木々を見上げた。冬の寒さを耐えた細い枝が、陽光を浴びて生き生きと輝いている。

桜が咲く・・・。もうじき、春がやってくる