足立翔とは、くされ縁だ。
まだ鼻水たらしていたチビのころから、わたしの遊び相手は、翔と決まっていた。
足立家とわたしの桜木家とは、家が三軒となり、歳もいっしょだから、家族ぐるみのつきあいとなったのは自然の成り行きだったかもしれない。
翔は、わたしのことを純と呼び捨てにする。わたしも、翔のことは名前で呼び捨てだ。
翔と純。名前だけ聞くと、男の子どうしの友だちのようだけれども、わたしは、れっきとした女の子だ。それも、玉のようにかわいいね。そこんとこ、ちゃんとおぼえておいてね。
それで、二人でどんな遊びをしていたかというと、キャッチボールをしたり、木登りをしたり、川で泳いだり、とにかく、元気いっぱい体を動かすことばかり。
もちろん、ゲームとかもやったけれど、わたしも翔も、小さいころから家の中にいるより外ではねまわっていることのほうがずっと好きだった。
まあ、おかげでわたしは、クラスメイトたちからも完全に男あつかい、いや、ケモノあつかいだったけれど・・・。
小学四年生の運動会前日のことだった。放課後の教室で、とつぜん、翔から言われた。
「純、おまえ、おれたちの仲間に入って、明日の学級対抗リレーに出てくれよ」
学級対抗リレーの選手は、運動会の花形だ。ふつうなら、大喜びするところだが、わたしはちがった。
「ばっかじゃない?翔が言ってんのは、男子のリレーの話でしょ。わたしは、女子のリレーのアンカーやるんだからね」
「義雄のやつがカゼひいちまってさ、今日、学校に来なかっただろ?うちのクラス、男子が少ないから、ほかに男いないんだよ。先生に言ったら、純ならいいだろうってさ」
「なっ・・・!」
わたしは、あっけにとられて言葉が出なかった。翔はともかく、先生までわたしを男だと思っているなんて。
だいたい、男子のリレーに女子が参加して問題にならないのかなあ?逆だったら、絶対にクレームがつくはずだけど。
結局、わたしは、翔に言われるまま、男子の学級対抗リレーにふくれっつらで出場した。
アンカーだった女子のリレーでは、三人抜きをしてクラスを優勝に導いたわたしだけど、男子のリレーでのポジションは、アンカーのひとつ前。アンカーは、翔だ。
女子のときと同じで、わたしの番が来るまで、うちのクラスは前から四番目の順位だった。
さすがに、男子の足は女子より速かったけれど、わたしは、一人目の男子をあっという間に追い越し、二人目の男子に追いついたところで翔にバトンを手わたした。
わたしたちの息は、ぴったりだった。
「純、ここだ!」
そうさけんだ翔は、わたしをふり返らずに少しずつ走り出した。わたしがうまくバトンパスすることを、これっぽっちも疑っていない。
反対に、わたしに追いつかれたクラスは、あせってバトンを落としただけでなく、勢いあまって、そのバトンをコースの外までけとばしてしまった。
これで、翔が本領発揮。さらに前を走っていたトップランナーを見事に抜き去り、わたしたちのクラスは、男女そろってのダブル優勝となった。
クラスのみんなは、大喜びだった。と同時に、男子よりも強靭な脚力を持つ女子として、わたしのケモノ度は、ピークに達した。
そんなわけで、わたしと翔は、まわりのだれからも二人で一人、いつだって一心同体のように思われてきたが、その関係が微妙に変わりはじめたのは、中学に入ってからだった。
もっとも、そう思っているのはわたしだけかもしれない。翔は、相変わらず明るく元気だし、クラスでも人気者だ。
でも、わたしにはわかる。翔は、わたしに運動会の時のような無理難題を言わなくなった。ううん、そんなことより、わたしの前で笑顔を見せる回数がめっきり減った。
理由はある。翔のお母さんが、病気で入退院をくり返しているのだ。それも、子宮けいがんという重い病気。
翔のような体力の化け物みたいな子どもを生んだ母親が、子宮けいがんになるなんて、神様というやつは、頭がおかしくなっているにちがいない。
翔は、今、十四歳の中学二年生だけど、そんな青春まっさかりの少年に、どうしてこんな過酷な試練をあたえるのか?
翔が笑わないと、わたしも笑えない。クラスメイトにそんなことを言ったら、「あんた、毎日バカ笑いしてんじゃないの」って突っこまれそうだけど、本当は、心から笑っているわけじゃないんだ。
たぶん、翔だけは、そのことに気づいている。気づいていながら、知らんぷりしている。
だから、わたしも翔の変化について、知らんぷりを決めこんでいる。その方が、これ以上、翔との関係をこわさないですむと思えるからだ。
× × ×
「あ~あ、もうセミが鳴きはじめてるっていうのに、夏休みまであと何日あるの?学校の授業の時だけ、時間が速く進んでくれたらいいのにい」
リビングのソファーの上で、バカなことを言いながらゴロゴロしているわたし。
母さんが、お昼ごはんのあとかたづけをしながら、そんなわたしに、まるで貧血でもおこしているんじゃないかと思うくらいの白い目を向ける。
「もう、休みの日くらい、少しは母親の手伝いでもすればいいのに。そうやって、ゴロゴロばかりしていると、ブタになるわよ。ブ・タ・に!」
「ひっど~い。自分の娘に向かって、よくそんなことが言えるわね。わたしは、朝ごはんのおかたづけを手伝ったから、もう何もしなくていいの」
「まったく、女の子のくせに、ほんっとに男みたいなんだから。少しは翔君を見習いなさい」
母さんの最近の口ぐせが、これだ。翔君を見習いなさいって、そんなのわかってますよ~だ。
たしかに、翔はがんばっている。学校に部活に塾。そして、家事手伝い。
「ねえ、翔ってば、だいじょうぶなの?なんか、あれもこれもがんばりすぎじゃない?」
「あんたが、がんばらなさすぎるんじゃないの?」
母さんは、いつもの憎まれ口を言いかけて、ふと、調子を変えた。
「・・・そうね、がんばりすぎかもね。翔君は、あんたとちがってまじめだから、なんでもかんでも、やりきっちゃおうとするのよね」
「あんたとちがってまじめ」は余分だけど、やっぱり母さんの目にも、翔はがんばりすぎって見えているんだ。
「わたしが、少しは手伝ってあげたほうがいいのかな?」
「なあに?母さんの手伝いはしないくせに、翔君の手伝いならするって言うの?」
「べつにそういうわけじゃ・・・」
母さんは笑いながら、でも、半分まじめに言った。
「翔君は、純に手伝ってもらっても、うれしい顔はしないでしょうね。こういう時は、深入りされすぎるのもいやなものよ。それより、あんたたち、朝霧の園に行ってきたら?もう、ひまわりが咲くころでしょ」
「うっ・・・」
わたしは、言葉につまった。
朝霧の園とは、わたしたちの住む町から山を三つ越えたところにある、野球場四つ分くらいのひまわり畑のことだ。
もっとも、ひまわりが咲くのは夏の間だけ。それ以外の季節は他の農作物の畑になっている朝霧の園が、空に積乱雲が浮かぶころになると、一面のひまわり畑となる。
そのスケールがあまりにも大きいので、テレビや雑誌でも紹介されるほどの名所なのだ。
「なんで、朝霧の園なのよ?」
「決まってるでしょ?翔君と二人で立てた目標、忘れた?小学生のうちに学校から見えるすべての山に登頂して、最後に朝霧の園までたどり着くっていう」
そうなのだ。翔とわたしの間には、そんなへんてこな約束があったのだ。
でも、実現しなかった。朝霧の園へと続く三つの山を越えていくのは、小学生にとってはかなりの難題だ。
ほかの山には、無事に登頂できたわたしたちだったが、朝霧の園に行く途中、足をくじいてしまったわたしは、本当にふがいないのだけれど、めそめそ泣いて翔に肩を支えられながら帰宅した。小学六年生の秋だった。
そもそも、どうして山登りなんかしようと思ったのか、また、どちらがそうしようって言い出したのか、今ではわからない。
とにかく、まだ低学年だったころのわたしたちは、手あたりしだいに山登りを開始したのだ。そして、登頂したところで、持っていった生ぬるい炭酸缶ジュースを「ぷはああああ~!」って飲みほす。
小さい子どものやることなので、それのどこが楽しいのかと考えなくもないけれど、とにかく、わたしたちは、いっしょに山へ登り続けた。いつの間にか、そうすることが義務のようになってしまった。
そして、朝霧の園に挑んでみごとに挫折した。
「朝霧の園のひまわり畑、入院している翔君のお母さんが見たがってるのよ。昨日、お見舞いに行ったとき、そう言ってたわ」
なるほど、そういうことか。でも、それなら、元気になって退院してから、自分の足で見に行けばいいのに。
「翔君のお母さん、もう、退院できないかもしれない・・・。本人も家族も口に出しては言わないけど、そういうことみたい」
「えっ・・・」
わたしは、思わず息をのんだ。
なによ、それ?翔のお母さんが死んじゃうなんて、そんなことあるわけないじゃない。だって、一週間前に翔と病院へお見舞いに行ったときは、とても顔色がよくて元気そうに見えたはず。
「まだ、あんなに若いのにね。どうして、こんなことになるのかしら・・・?」
母さんの声は、最後のほうでほんの少しふるえて聞こえた。わたしの心臓は、ドキドキと音が出そうなほど速く動き出した。
お母さんが死んだら、翔はどうなっちゃうのだろう?もしも、わたしの母さんが死んじゃったら、わたしは、気が狂ったように泣いて、頭がどうかなってしまうにちがいない。
翔のお母さんが、朝霧の園のひまわり畑を見たがっている。もう、退院することができないかもしれない翔のお母さんが・・・。
そう思うと、わたしは、いてもたってもいられなくなった。翔が、これまでの時をどんな気持ちで過ごしてきたのか、まるでわかっていなかった自分が急にうらめしくなった。
× × ×
「翔、ひまわり畑見にいこうよ。朝霧の園のやつ」
「なんだって?」
翌日の放課後、帰宅しようとしている翔を呼び止めて、わたしは言った。
「再チャレンジするの。朝霧の園だけ、まだ行けてなかったでしょ」
「おまえ、アホか。いまさら、ガキみたいなことして何になるんだよ」
翔はあきれて言ったが、その口もとはニヤついている。
翔は、口が悪くていつもこんな感じだけど、こいつが乗り気なのは、長年つれそってきたわたしにはよくわかるんだ。
「いつ行くんだ?」
「今度の日曜日は、どう?」
「どうして、朝霧の園?リベンジか?」
「どうだっていいでしょ。行くの?行かないの?」
結局、翔とわたしは、次の日曜日に二人で朝霧の園へ行く約束を、その場で交わした。
もちろん、お約束の缶ジュースを忘れてはならない。でも、朝霧の園まではけっこうな道のりだから、おなかもすく。
そうだ、今回は缶ジュースはやめて、わたしがお弁当を作っていってあげよう。手作りのお弁当。翔が好きなものは何だろう?わたしのお弁当、翔はおいしいって食べてくれるかな?
わたしは、お弁当のおかずのメニューをあれこれ考えながら、翔の喜ぶ顔を想像してみた。
思いっきりお弁当をほおばって、うれしそうな翔。そんな翔を見て、満足しているわたし。
日曜日、晴れるといいな。青空の下で食べるお弁当は、きっと、地球の味がしておいしいにちがいない。そう思った。
× × ×
待ちに待った日曜日の朝。
窓を開けると、太陽が焼けるようにまぶしい。風が、遠くで鳴きはじめたセミたちの声を運んできて、いよいよ夏の到来を感じさせる。
「ヤッホーッ、最高で絶好のハイキング日和じゃない?」
わたしは、ふとんから飛びおきると歯みがきをシャカシャカやって、朝ごはんもガッツリ食べて家を飛び出した。
「行ってきま~す」
「あっ、カサかレインコートは持った?」
うしろから母さんの声が追いかけてきたが、わたしは無視して、ツクツクボウシの鳴くアスファルト道をかけだした。
雨なんてふるわけないじゃない。だって、雲ひとつない晴天だよ?
わたしがかけ出したのと、翔が家から飛び出してきたのは同時だった。こんなところでも息があっちゃうんだよね、わたしたちって。
「おまえ、三軒となりの家に来るのに、いちいちダッシュするなよ」
危うくわたしと激突しそうになった翔は、「おはよう」もなしに、もんくを言う。
「もう、朝からボーッとしてないで、早く行こっ」
絶好調のわたしは、翔のふくれっつらなんかおかまいなし。翔の腕をぐいぐい引っぱって歩きはじめた。
やっぱり、翔をつれてきてよかった。
夏の高い日差しの下を歩きながら、わたしは、ひとりそう思っていた。
だって、翔ったら、まだ最初の山登りもはじめてないのに、ニッコニコなんだもん。クマゼミが電信柱にとまっているだの、飛行機雲がすごくきれいに伸びているだの、あっちこっちを指さしては、小さな子どもみたいにはしゃいでいる。
こんなあどけない翔を見たのは、ひさしぶりだ。つられて、わたしも、今日は笑いっぱなし。足どりも、裸足で歩いているみたいに軽やかだ。
家を出てから二十分もしないうちに、わたしたちは、最初の山にさしかかった。
何度も言うようだけど、朝霧の園は、三つの山を越えた向こうにある。そんなに険しい山ではないけれど、小学生には大変な道のりだ。
でも、今のわたしは中学二年生。あれ?こんなにかんたんな道だった?思わず、そう疑いたくなってしまうほど、足腰に疲労感はない。
考えてみれば、ここは朝霧の園へと続くハイキングコースのような道なのだ。だから、ナップサックを背負ったお年寄りの夫婦や子どもづれの家族と出会ったりする。
なんでこんなのどかな山道で、小学生のわたしは足をくじいたりしたんだろう?今さらながら、くやしくなってきた。
けれども、そのおかげでわたしは、思いがけない翔のやさしさと出会った。
泣いていたわたしの肩をずっと支えながら、「もう少しで家だからな。がんばるんだぞ」とはげまし続けてくれた翔。
その時の翔の、いつもとはちがう素直な笑顔を、わたしは、今でもはっきりとおぼえている。
「おいっ、見つけた見つけた!カブトムシ!こんなところで見つかるなんてびっくりだな」
翔が、道端の茂みにしゃがみこんで歓声をあげている。それから、手のひらに乗せたカブトムシをこちらに向けてさしだした。
「なによ、人のことガキみたいだとか言ってたけど、自分のほうがよっぽどガキじゃんか」
口をとがらせているわたしの顔を、翔は、まぶしそうに見上げている。
屈託のない笑顔を浮かべていても、そのひとみの奥にある悲しみを、わたしは、うっすらと感じている。
「ちがうよ。小学生のころだったら、絶対に持ち帰ったはずだけど、今は、そのまま逃がしてやるんだ。こいつら、そんなに長生きじゃないから」
遠くで、雷の音がゴロゴロと小さくなった。
音のした方角を見上げると、行く手の山々から雲が立ち上っている。どことなく湿気をふくんだ風が、わたしたちの髪をゆらした。
「そうだね」
わたしは、小さくうなずいた。
× × ×
お弁当は、朝霧の園で食べるつもりだったのが、どちらからともなく、「腹へらね?」ということになって、ふもとの町なみがのぞめる見晴らしのいい木かげでお弁当にした。
あらかじめ、お弁当はわたしが作っていってあげると翔には言っておいたけれど、これが、ずいぶんうさんくさそうな目で翔から見られる結果となってしまった。
「おまえ、料理なんてできるのか?」
「人を食中毒にさせる気じゃないだろうな?」
この数日間、さんざん翔から言われ続けてきた言葉だ。
だから、わたしも意地になって、ずいぶんがんばったんだよ。母さんから、いろいろ教わってね。
「うわっ、すげーな!」
お弁当箱の中身を見たとたん、翔がすっとんきょうな声をあげた。
ほら見なさい。わたしだって、やればできるんだから。
お弁当箱の中には、ピーマンで巻いたひき肉がある。ナポリタンスパゲッティも入ってる。もちろん、タコさんウインナーだって、忘れていない。
翔は、中学生の男子にふさわしい、豪快な食べっぷりでわたしの作ったお弁当をあっという間に平らげていった。
でも、「おいしい?」って聞いても、「うん」としか答えない。
あんたねえ、もうちょっと、ほめ言葉くらい持ってないの?食レポしなよ、食レポ。
そう言いたいところだけど、かえってこのほうが翔らしくて、いいのかもしれない。
お弁当を食べ終えると、わたしたちは、再び山道を歩きはじめた。もう、三つ目の山にさしかかっている。
ところが、ここで思いがけないことがおこった。さっきから小さく鳴っていた雷鳴が急に近づいて、空一面にどんよりとした雨雲が広がりはじめたのだ。
「やべーぞ。おい、純。こいつは、やべーぞ」
翔が心配そうに空を見上げているうちにも、ぽつぽつと、雨のしずくがわたしたちの顔にあたりはじめた。
「カサかレインコートは持った?」という母さんの声が、わたしの耳の奥にうらめしくよみがえった。
う~っ、母さんの言うことは、いつだって悪いことばかり当たるんだ。もっとも、山の天気をあなどったわたしが悪いんだけど。
翔とわたしは、しだいに激しくなっていく雨の中をいっしょうけんめい走って、ようやく見つけたトタンぶきの山小屋の軒下に逃げこんだ。
でも、ほとんど朽ちかけたボロボロの山小屋で、上からぽたぽたと雨水が落ちてくる。おかげで翔とわたしは、ぴったりと寄りそって、雨雲が通り過ぎるのを待つしかなかった。
「純、だいじょうぶか?」
「うん、だいじょうぶ。でも、ずぶぬれになっちゃうね」
軒下にいても、下から吹きこんでくるような強い雨。
ただひとつの救いは、お弁当を食べた後だってこと。せっかくのお弁当が水びたしになったら、泣くに泣けないもんね。
「早くやまないかなあ。このままじゃ、また朝霧の園まで行けなくなっちゃうよ」
通り雨にちがいないとは思っていたけれど、わたしはそう言ってみた。
「中学生にもなって、また泣き出すんじゃないぞ」
翔が、そんなふうにからかってくることを期待しながら。
けれども、翔は、何も言わなかった。
どうしたのかと思って、翔の横顔を見上げると、そのひとみがゆれているように見える。激しくふり注ぐ雨粒のせいかと思ったけれど、そうではなかった。
驚いた・・・。翔が泣いている。
今まで、翔が泣いている姿を、わたしは見たことがない。近所の悪ガキどもとケンカになったり、自転車ごと川に落ちて血だらけになったりした時も、翔は、一度だって涙なんか見せたことはなかった。
そんな翔が、今、わたしのとなりで泣いている。
その時、わたしの頭の中に、この前お見舞いに出かけた時の翔のお母さんとの会話がよみがえってきた。
「純ちゃん。いつまでも翔と仲よくしてあげてね。口では乱暴なことばかり言うけど、あの子は、純ちゃんがそばにいないとダメなのよ。いい?お願いね。ずっと、翔のそばに・・・」
翔のお母さんは、翔がいないすきを見はからって、わたしにそう言ったのだ。
今にして思えば、あの時の翔のお母さんの言葉には、とても深い意味があった気がする。そのことに気づかなかった、能天気な自分が腹立たしい。
「こらっ、全部あんたのせいだ。あんたがかさを持ってこないから、雨がふるんだ!」
わたしは、メチャクチャなことをさけびながら、翔の背中を突き飛ばした。もちろん、転ばない程度にだけど。
軒下から前かがみにつんのめりながら、翔が怒った顔でふり返る。
「痛ってえーなあ!いきなり、何すんだよ?」
「ざまあみろ!痛かったら、ここでわんわん泣いちまえ」
「うるせーっ、だれが泣くもんか!」
「あらそう?だったら、これでどうだ!」
言うが早いか、わたしは、翔の頭にげんこつを入れた。これも、あまり痛くないようにだけど、翔は、頭を抱えてたじろいでいる。
「ほ~ら、痛いだろう?泣きたいんなら、がまんなんかしてないで、思いっきり泣きゃあいい!」
わたしのぶっきらぼうな言葉に、翔は、はっとした顔をした。わたしが、なぜ急に凶暴になったのかわかったような顔だった。
そのとたん、なぜかわたしの瞳からも、しょっぱいお水が出てきた。
あ、あれ?わたしは、泣くつもりなんてないのに。翔だけに、いつもがまんばかりしている翔だけに、わたしの前で泣いてほしかったのに。
「おまえまで、なんで泣いてんだよ・・・」
「うるさいっ、わたしのは雨水だ」
おたがいにののしりあいながら、わたしたちは泣いた。そう、こうして泣きたかったのだと、わたしたちは気づいた。
翔のお母さんが、病で苦しんでいる。もしかしたら、もうすぐ会えなくなってしまうかもしれない。そんな時、なぜ、わたしたちは、なんでもないという顔をしたがるのだろう。
悲しければ、泣けばいいのだ。辛いのだったら、二人でいっしょになって、おいおい泣いてしまえばいいのだ。
そのほうが、少しはすっきりする。少しだけど・・・。
わたしたちは、軒下から速い雲の流れを見上げながら、いつまでも泣いていた。涙は、深い地面の底からあふれてくる湧き水のようだった。
でも、どれくらいの時間がたっただろう。雲のすき間からわずかな晴れ間がのぞきはじめると、そんな涙も少しずつ乾いていった。
「・・・純、おれたちが山登りをするようになったわけ、おまえ、おぼえてるか?」
何を思ったか、翔が、少しいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「えっ?わかんない。翔はおぼえてるの?」
「もちろんさ。おれが言い出したんだから」
わたしは、びっくりして翔の横顔を見つめた。わたしとちがって、翔には、小学校に入ったばかりの記憶がちゃんと残っているんだ。
「うちの母さん、結婚する前、山登りが趣味だったらしいんだ。大学では山岳部にも入っていたんだってさ。でも、おれを生んだ後、病気になっちまって二度と山登りができなくなった。本当のこと言うと、今回のがんは再発なんだ」
それは、わたしがはじめて聞く話だった。
翔のお母さんが、そんな以前から病気を患っているとは知らなかった。それに、山登りが好きだったっていうことも。
もちろん、翔のお母さんが登っていたのは、冬には雪が積もるような高い山々だ。
翔は、話を続けた。
「学生時代、母さんは、ある山の頂上近くでウスユキソウが咲いているのを見つけたんだ」
「ウスユキソウ?」
「エーデルワイスって、聞いたことあるか?ほら、歌にもあるだろ?本当は、ヨーロッパにしか咲かない花なんだけど、日本では、ウスユキソウの仲間をエーデルワイスって呼ぶんだ。雪をかぶったような白い花で、なかなか見ることができないらしい。けれども、それ以来、もう一度、山でウスユキソウを見つけることが母さんの夢になった。病気のせいで、かなわなくなったけど」
ある時、翔は、お母さんから聞いて朝霧の園の存在を知ったのだという。そして、小学校の低学年にとっては、かなり大変な朝霧の園までの道のりを制覇しようと心に誓った。
なぜか?
「朝霧の園には、ウスユキソウがあるんだ。栽培されたやつだけどね。開花の時期は、ひまわりより少し早めだけど、今の季節なら、どちらも見られると思う」
ひまわり畑の中にある、雪をかぶったようなウスユキソウたち。想像しただけでも、それは不思議で幻想的な光景に思えた。
「だから、純からもう一度朝霧の園へ行こうって誘われた時、本当は、すごくうれしかったんだ。母さんのためにできることが、まだあるんだって」
わたしは、翔のその言葉を聞いて、すべての意味がわかったと思った。
幼かったころの翔は、健康を失ったお母さんのかわりに、自分が身近にある山に登って、お母さんに喜んでもらおうとしたのだった。そして、最後にウスユキソウのある朝霧の園を目指した。
時を経て、今、病床にある翔のお母さんは、そんな当時の翔の心にこたえようと、あえて朝霧の園のひまわり畑を見たいと、わたしの母さんに言ったのだ。そうすることで、看病ばかりに専念している翔を、少しでも自分から解放してあげたかったから。
ほかの場所だったら、きっと、翔は行かなかったにちがいない。でも、朝霧の園なら話は別だ。
翔は、お母さんのために、朝霧の園にあるひまわり畑と、いっしょに咲いているウスユキソウをその目で見てみたかったのだ。
「知らなかったよ・・・」
わたしは言った。
「翔がそんな思いで山に登っていたなんて、わたし、なんにも知らなかったよ」
がんばりすぎている翔。一言ももんくを言わず、けっしてへこたれない翔。そんな翔のことをいちばん心配しているのは、やっぱり、翔のお母さんだった・・・。
気がつくと、雨がほとんどやんでいた。山の頂の高みを、トビが弧を描きながら飛んでいる。
「純、行こうか」
トビの様子を見上げていた翔が、気をとりなおしたように顔をこちらへ向けた。まるで、今までの話が何もなかったかのようだった。
「・・・うん。あとちょっとだもんね」
わたしも、泣きはらした目を指でぬぐってこたえた。そうするしかなかった。
わたしたちは、雨上がりのしっとりとした空気の中を、朝霧の園目指して再び歩きはじめた。
少しだけ突っぱっていた、ももやふくらはぎから痛みが引いた気がする。雷雨のせいで足を休めることができたせいもあるけれど、それよりも、心の中にひっかかっていたものが、きれいにそうじされたためかもしれないとわたしは考えた。
不思議だな・・・。
翔と歩きながら、わたしは、胸の奥が苦しいような切ないような変な気持ちになっていた。
何だろう、これ。なんで、こんなふうに落ち着かないんだろう。
わたしは、今、こうして翔と歩いていることがうれしかった。でも、そんな喜びは、生きているからこそ与えられるものだった。死んでいく人には、それがない。
わたしは、翔とならいつまでも歩き続けていきたいと思った。
翔のお母さんが望んでいたように、わたしも、胸のいちばん奥深くの大切なところでまっすぐにそう思った。
× × ×
最後の山を下り深い竹やぶを抜けると、突然、見たこともないような黄色一色の世界がひろがった。とうとう、念願だった朝霧の園にたどり着いたのだ。
それは、うわさどおり、野球場四つ分、いや五つ分はある広大なひまわり畑だった。たくさんのチョウが、あっちでもヒラヒラ、こっちでもヒラヒラ舞っている。
わたしは、ちょっと浮かれた気分になって、チョウのようにひまわり畑の上を飛んでいる自分を想像してみた。すると、たちまち翔から突っこまれた。
「何、ニタニタしてんだよ?」
「えっ?べ、別にい・・・」
もう、翔のやつったら、人の心の中を見透かしたように言う。さっきまでの泣いていた翔は、もう、そこにはいない。
「ねえ、ウスユキソウを探そうよ」
わたしたちは、近くにいた係員にウスユキソウが咲いている場所をたずねた。
ウスユキソウの栽培は、意外に一般の人には知られていないらしく、係員は、少し驚きながらも、うれしそうに咲いている場所を案内してくれた。
そこには・・・。
「本当に雪をかぶったみたいだな・・・」
「うん。夏なのに、ここだけ別世界みたい・・・」
わたしたちは、そうつぶやいたきり、しばらく言葉を失った。
ウスユキソウは、ひまわり畑のど真ん中、家の庭くらいの敷地にあった。小さな花びらに雪が積もったようになっていて、まるで、夏の中心に冬の子どもがやってきたみたいだ。
ひまわりから比べたら、ずいぶんひっそりした咲き方だったが、それだけに、その可憐さは際立っていた。
でも、ウスユキソウに心をとめる人は少ない。みんなは、無数に笑顔をふりまく、ひまわりの華やかで健康的な美しさに見とれている。
「人がいっぱいだな・・・」
「家族づれが多いよね。みんな、電車とバスで来るんだよ」
「うん」
そうなのだ。朝霧の園は、駐車場があまりないぶん、電車とバスでかんたんに来られるようになっている。
だって、観光地だもん。それを、わたしたちは、わざわざ徒歩で山を三つも越えてやってきたのだ。あははは。なんか、バカみたい。
でも、わたしは、それを本当にばかばかしいとは、これっぽっちも思っていなかった。電車とバスを使ってしまっていたら、同じウスユキソウを見ても、こんなに感動することはなかっただろう。
大切なのは、わたしたちが、翔のお母さんのためにここまでやってきたということだった。
かけがえのない人のために、苦労できること。それが、今のわたしたちの望みであり、ただひとつの救いだった。
「写真、撮るんでしょ?お母さんに見せてあげるやつ」
「おう」
翔は、ナップサックから取り出したデジカメで、ウスユキソウに向かってパシャパシャとやりはじめた。
「おまえも写してやるから、そこに立てよ」
翔に言われるまま、わたしは、ウスユキソウとその向こうのひまわり畑を背にして立った。
う~ん、最高にかわいい一枚。
「あんたも、写してあげるね」
今度は、わたしが翔と入れ替わってパシャリ!
それから、そうだね。二人でならんでいるやつもほしいなあ。そう思って、近くにいたどこかのおばあちゃんに写真をお願いしたら、「まあまあ、かわいらしいカップルだわねえ」だって。
わたしたちは、知らないおばあちゃんの前で否定することもできず、「へへへ」と顔をまっ赤にさせて笑いながら、一枚の写真におさまった。
× × ×
こうして、わたしたちの朝霧の園への冒険は終わった。
中学生になった今、この程度のできごとを冒険と呼べるかどうかわからないけれど、とにかく、わたしたちは、幼いころの約束を果たしたのだ。
帰りは、ほかの行楽客と同じように、バスと電車で帰った。さすがに、ここから山を三つ越えて帰宅するのは無理だった。
長い山道を暑さにフウフウしながら歩き続け、雨でずぶぬれになって、わたしたちは、へとへとになっていた。
それだけに、バスをおりて電車に乗りかえたとき、たちまち眠気が襲ってきた。
二人用の席にならんで座ったわたしたちだったけれど、わたしよりも先に、となりから翔の寝息が聞こえてきた。
あ~あ、こんなにかわいい顔して寝ちゃって。思わず笑いそうになったのに、なぜか、また涙がにじんできた。
ああ、いけないいけない。泣いてばかりいたら、ますます、辛いことが翔の身にふりかかってしまいそうな気がする。だから、わたしは泣くのをやめた。
翔とわたし、ウスユキソウの前で二人が笑ってならんでいる写真を、翔のお母さんは、どんな気持ちで見てくれるだろうか。
写真を撮ってくれたおばあさんと同じように、「かわいいカップルねえ」なんて、ほほ笑んでくれるだろうか。
これからも、長く苦しい闘病生活は続く。行く手に、どれほどの辛い日々が待ち構えているのか、それは、だれにもわからない。
それでも、わたしは思った。
もしも、翔のお母さんが退院できたら、ううん、きっと退院できるに決まっているけれど、その時は、みんなで朝霧の園にやってこよう。
それまでに、わたしは、もっとお弁当を上手に作れるようになろう。そして、翔のお母さんに、わたしのお弁当を食べてもらうのだ。
たとえ、ウスユキソウが枯れてしまっていてもいい。わたしにできるのは、ただそれだけ。
ただ、翔と翔のお母さんが、ウスユキソウが咲いていた場所で、笑顔を交わせる日がやってくるのを信じることしかできないのだから。
「・・・ああ、寝ちまったよ」
翔が、寝ぼけまなこをこすって言った。それから、通り過ぎていく景色に目をやりながらつぶやいた。
「純、ありがとな・・・」
わたしは、はっとして翔の横顔を見つめた。
「うん・・・」
何かを言いたかったが、言葉にはならなかった。言葉にしなくても、今のわたしの気持ちを翔ならわかってくれると思った。
夕日が電車の中に差しこんでいる。
行く手に人気の少なくなった、小さな駅が見えてきた。わたしたちの住む町。わたしたちの家族がいる、大切な場所。
わたしと翔は、どちらからともなく手をつないで、人影のまばらなプラットホームに降り立った。
遠い空に、ジェット機の爆音が響いている。
コンクリートのくぼみにできた水たまりに、どこからやってきたのか、アメンボの作った波紋が、ひとつふたつと広がった。