風が吹いて

こんなに大きな台風が来たのは、はじめてだった。

朝からふっていた雨が、夕方から強くなりはじめ、夜の九時をまわったころ、おまわりさんが家にやってきた。

「青山さん、こちらの町内にも避難勧告が出ました。できるかぎり、小学校の体育館へ避難してください」

おまわりさんは、そう、お父さんに告げていった。

六年生の晴香の家は、おばあちゃんとお父さん、お母さん、それに、晴香と弟の翔太の五人家族だ。

晴香が三年生の時、お父さんの転勤先だったこの町に家を建て、ひとり暮らしだったいなかのおばあちゃんを呼んだ。これでひと安心だと思っていたから、避難勧告と聞いて、みんな青くなった。

「ねえ、川がはんらんするの?」

「そうらしいな。不動産からは、こんな土地だなんて聞いてなかったぞ」

避難用の荷物をあわただしく整えながら、お父さんは、おこったように言った。おばあちゃんは、落ちついている。

「長生きすると、いろんなことがあるもんさ。いい経験だと思えばいい」

そう言って、晴香の背中に勉強道具や着替えの入ったナップサックを背負わせてくれた。

「晴香、悪いけど、おばあちゃんの手を引いてあげてもらえる?お母さん、晴香でだいじょうぶですか?」

お母さんは、足の悪いおばあちゃんを心配している。いちばん手のかかる翔太は、自分がつれていくつもりらしい。

「だいじょうぶだからね。みんなで小学校の体育館に行くのよ」

晴香は、お母さんにしがみついている翔太に笑ってみせた。翔太はだまってうなずいたが、片手で持っているカナリアの鳥かごがブルブルとふるえていた。

 

外に出ると、まっ暗な空から大粒の雨が爆弾のようにふっていた。懐中電灯の明かりが、あちらこちらでゆれている。

消防車やパトカーが、サイレンを鳴らしながら、ものものしく行ったり来たりするのを見て、晴香も鳥肌の立つ思いがした。

晴香は、歩みのおそいおばあちゃんを支えながら歩いた。けれども、舗装道路の上にたまったぬかるみや水たまりに足をとられて、途中からは、支えているのか支えられているのかわからなくなってしまった。

ようやく小学校に着くと、同じように避難してきたたくさんの人々で体育館はごった返していた。

持ってきたレジャーシートを床に広げたが、それだけではかたくて、とてもすわれたものではなかった。

そこへ学校に備蓄されていた毛布が配られたので、それで何とかその場をしのいだ。

みんな、つかれていた。晴香もつかれていたが、自分のことよりも、カギをかけて残してきたわが家が、ぼくをおいていかないでと泣いているような気がして悲しくなった。

「下流のほうは、床上まで浸水しているらしい」

「中学校のうらの山が、くずれたそうだよ」

そんな大人たちの会話が、晴香の耳に入ってくる。不安な気もちをかかえたまま、晴香は、体育館の入口に立って、いつやむとも知れない豪雨の空を見上げた。

そのとき、気がついた。自分と同じように、空を見上げている少女がいることに。

「あっ、杉村さん・・・」

自然に口をついて出た言葉に、少女がふりむいた。杉村理恵という、転校してきてまもないクラスメイトだった。

理恵は、何も言わずに小さく頭を下げた。キリリとした目もとが、彼女の気の強さをよくあらわしていて、晴香は、思わず顔をふせてしまった。

 

×    ×    ×

 

理恵は、転校して早々に、クラスの男子数名と大ゲンカをした。原因は、単純なことだった。

理恵は、まるで笑顔を見せない女の子だった。そして、男子に対しては、強い態度でポンポンとものを言う女の子だった。

当然のように、理恵は、たちまちいじめの対象になった。まるで、わざと自分からいじめられようとしているかのようだった。

けれども、彼女はいじめられなかった。いじめられるにしては、強すぎたのだ。

まだ、転校してきて三日とたたないある日のことだった。帰りのホームルームが終わり、担任の先生が教室から出て行ったのを見はからうようにして、理恵は、声を荒げて言った。

「だれ?わたしのかばんに画びょうを刺したのは?」

それまでざわついていた教室の中が、シーンと静まり返った。

理恵は、するどい目つきで、教室の中を見まわした。たしかに彼女のランドセルの背中には、金色に光る画びょうが、何本も突き刺さっていた。

だれも、答えなかった。どこかで、クスクスという笑い声が聞こえた。

次の瞬間だった。

理恵は、その声のした方へさっと走りより、笑っていた少年をいきなり画びょうが刺さったままのランドセルでなぐったのだ。

自分の机の上にすわっていた少年は、勢いあまって、床の上にひっくり返った。

「なんだよ!オレがやったっていう証拠でもあるのかよ!」

そう言う少年の顔を、理恵は、もう一度ランドセルでなぐりつけた。

「証拠がなければ、何をしてもいいと思ってるの?」

「わあっ、やめろ!」

理恵に手かげんはなかった。彼女は、止めようとした男子もなぐった。さらにべつの男子もなぐった。三人とも、いっしょになって理恵をいじめようとしていた仲間だった。教室は、大さわぎになった。

理恵は、騒動を聞きつけてきた先生に腕をつかまれ、職員室に引っぱられていった。そして、先生からこっぴどくしかられた。

けれども、理恵はまちがっていなかった。画びょうを突き刺した犯人は、やはり最初に理恵になぐられた少年だったのだ。

晴香は、昼休みに少年が理恵のランドセルに画びょうを突き刺すのを見ていた。ほかの二人の少年が壁となって、いたずらをまわりから見えにくくしていた。

晴香は、少年たちがこわかった。ふだんからクラスの気の弱そうな子を見つけては、何かとからかっているのを知っていたから、いけないと思いつつ見ないふりをしてしまった。

そのせいかもしれない。事件があってからというもの、晴香は、理恵をまともに見ることができなくなった。うしろめたさが先に立って、もしかしたら、この子は、自分のことを何もかもお見通しなのではないかと心配になってしまうのだ。

だから、なぜ、今、声をかけてしまったのだろうかと後悔している。

「青山さんも、避難してきたんだ?」

しばらくしてから、理恵は、じっと晴香を見つめたまま言った。

「うん。家族といっしょ。お父さんとお母さんとおばあちゃん。それに、弟も来てる」

「ふうん」

自分から聞いておきながら、理恵は、あまり興味がないようすで晴香のこたえにうなずいた。

晴香は、理恵も家族といっしょに来たのかと聞き返そうと思ったが、どうしてもためらってしまい、言葉にはならなかった。

理恵は、だまっている。そして、ふたたび空を見上げた。

「わたし、家族のところへ行くね」

話しかける言葉が見つからなくて、こまった晴香がそう言うと、理恵は、「うん」と短く答えただけで、こちらをふり返らなかった。

その手にピンクの携帯電話がにぎられているのが、どこか不自然だった。

 

×    ×    ×

 

「友だちかい?」

家族のところへもどってきた晴香に、おばあちゃんがたずねた。

「うん。クラスメイトなの。転校してきたばかりの」

「こっちに呼んでくればいいのに」

「うん?うん・・・」

「いやなのかい?」

もじもじしている晴香を見て、お母さんが口を開いた。

「杉村さんでしょ?呼んできなさい」

思いがけず、お母さんはきびしい調子で言った。ふだんから怒りっぽいお母さんだけど、こんなに真剣な言いかたをされたのははじめてだったので、晴香は、あっけにとられた。

(何よ?お母さんたら、そんなにこわい顔しなくたっていいじゃない)

晴香は、心の中だけですねてみせた。口に出さなかったのは、お母さんの言葉のどこかに、正しいことがあるような気がしたからだった。

しかたなく、ふたたび理恵のもとへ向かった晴香だったが、今さら、なんて言えばいいのかわからない。

たぶん、「わたしは、ひとりでいいよ」とことわられるに決まっていると思っていたら、とつぜん、クラスメイトで仲のいいケイとサユリが、「晴香!」とさけんで横から抱きついてきた。

「よかったあ、晴香がいてくれて。わたしたちも避難してきたんだよ!」

いつも元気いっぱいのケイが、少しべそをかいたように言う。

「ケガはない?ケイと心配してたんだよ」

見るからに人のよさそうな、丸顔のサユリが、心配そうに晴香の顔をのぞきこんだ。

「ううん、わたしはだいじょうぶ。ケイとサユリもだいじょうぶなの?」

「平気、平気!家は、どうなってるかわからないけどね」

「ケイの家は安心だよ。わたしんちより、高いところにあるもの」

サユリにはげまされて、ケイは、うなずきながらグスンと鼻をすすった。不安げだった三人の顔に、ようやく笑みがもどった。

大さわぎの晴香たちを、近くにいる人たちが何ごとかとふり返っている。その中には、理恵の顔もあった。

晴香はケイとサユリに話をあわせながら、心の中で「しまった」と思った。理恵は、三人の姿を遠くにながめてから、静かにその場をはなれていってしまったのだ。

「あっ、待って」

そう呼び止めたかったが、その時間すらあたえてくれないほど、理恵の行動はさらりとそっけなかった。

けっきょく、サユリとケイをつれて家族のもとへもどると、家族みんなが笑顔でむかえてくれた。お母さんは、理恵のことについては、それ以上、何も言わなかった。

外では、雨がいちだんと強くなっている。体育館の天井をたたく雨粒の音で、一時は、会話がしにくくなるほどの豪雨だった。

どこかで山くずれがあったらしく、水防団から自宅が押しつぶされたことを伝えられた避難家族が、体育館のすみで悲鳴をあげた。

「お気の毒に。これから、どんなに大変なことか・・・」

お父さんが、心から同情してつぶやいた。次は、うちかもしれないと考えているのだろう。

「ぼくんちは、こわれてないよね?だいじょうぶだよね?」

「なんでもないよ。翔くんがいつもいい子にしてるから、死んだおじいちゃんが守ってくれるよ」

おばあちゃんが、泣き出しそうな翔太の頭をなでながらなぐさめている。

それを見ていた晴香も、さっきまでの悲しい気もちを思い出してしまった。同時に、呼んでこられなかった理恵のことがひどく気になりだした。

山くずれがあったのは、どこなのだろう?理恵の家は、だいじょうぶなのだろうか?晴香の目に、泣いている理恵の姿が浮かんでくる。

こういうときは、いっしょに肩を寄せあっていたほうがいいのだ。みんなでいれば、心配なことや悲しいことも、少しずつわけあっていられる。

晴香には、胸に引っかかっているものがあった。理恵の手ににぎられていた、ピンク色の携帯電話だ。

最近になって、晴香は、お父さん、お母さんに携帯電話をおねだりしている。クラスの中で、携帯電話を持っている人が増えているからだ。

サユリはまだだったが、ケイは、テレビまで見られる機種を買ってもらって、学校以外で会うときは、いつも持ち歩いている。

そのくせ、電話が必要なことなどめったになくて、お母さんから、「そろそろ家に帰ってきなさい」という着信があるのを楽しみにしていたりする。

けれども、理恵の持っていた携帯電話は、そういう遊び半分のものではないような気がした。

理恵は、携帯電話の向こうにいるだれかと、強くつながっている。そして、その人からの着信があるのを心待ちにしている。携帯電話を強くにぎりしめている姿から、そんな印象を受けたのだった。

晴香は、家族に「ちょっと、トイレに行ってくる」と言って、理恵をさがしに出かけた。

体育館の入口にもどってみると、あとから避難してきた人々が、続々と押し寄せている。その光景を見て、晴香は、理恵がここでだれかを待っていたのだと気がついた。

晴香は、体育館を出た。となりの校舎へとつながるわたりろうかを歩きだしたとき、理恵の声が進む先の暗がりから聞こえてきた。晴香は、ほっとなった。

「あっ」

理恵は、晴香を見て短く言葉を切った。携帯電話で、だれかと会話をしていたようだった。

「・・・ううん、なんでもない。クラスメイトの友だちが来たの。・・・そうよ。じゃあ、切るね」

理恵は、電話を切ると、「どうしたの?」と首をかしげた。

「もしかして、ひとりでここまで来たの?」

晴香の問いかけに、理恵は、少しためらってから小さくうなずいた。

「もう少ししたら、母さんが来てくれることになってるけどね」

「だったら、それまでわたしのところへおいでよ。ケイとサユリもいるから」

「・・・・・」

理恵は、答えなかった。すると、晴香は、そんな理恵の手をいきなりつかんで引っぱった。自分でも、どうしてこんなに強引なまねができたのかわからなかった。ただ、このまま、この子をひとりにしておいてはいけないと思った。

理恵は、いやがらずについてきた。いつもはおとなしい晴香が見せた、大胆な行動に気おされたのかもしれない。

晴香が理恵をつれてきたのを見て、ケイとサユリはおどろいたようだった。けれども、晴香のお母さんの「よく来たわね。さあ、すわって」という言葉に、自分たちの間の場所をあけて理恵をまねいた。

「ありがとうございます」

ぎこちないようすで腰を下ろした理恵に、にぎっている携帯電話を見たケイが、すかさず質問した。

「杉村さんも、携帯電話持ってるんだ?わたしとアドレス交換しようよ」

こういうストレートなところが、ケイのいいところかもしれない。

「え?ああ・・・、うん、いいよ」

少しとまどいながらも、ケイとアドレス交換している理恵を、晴香はじっと見ていた。

「わたしも、携帯ほしいなあ」

となりで理恵の携帯の画面をのぞきこんで、サユリもうらやましそうに言う。

「わたしのなんか、テレビも見られるんだよ。ほら」

ケイが得意そうにワンセグに画面を切りかえると、子どもだけでなく大人たちまでが、小さな携帯電話の上で頭を突っつきあわせた。

「へえ、これ、いいね。ちょうど、台風のニュースやってるし」

サユリは、感心している。

「でも、長く見てると、バッテリーがすぐになくなっちゃうわよ」

理恵が、まじめな顔で言った。

こうなると、女の子どうしの会話は、どんどんはずんだ。はじめは、少しかたい話ばかりだったが、すぐに、アイドルやアニメの話題でもちきりになった。

晴香も、話の仲間に入った。次から次へと、まるで巣作りにいそがしいツバメのように言葉を交わしているうちに、晴香は、どうして今まで理恵とこんなふうにおしゃべりできなかったのだろうと思った。

しばらくして、理恵のお母さんがやってきた時には、理恵は、すっかりまわりの雰囲気にとけこんでいた。

晴香は、気がついた。

(この子、こんなに笑うんだ・・・)

 

×    ×    ×

 

職場から直接来たという理恵のお母さんは、エプロンをしたままのかっこうをしていた。

老人ホームで介護士として働いているらしく、帰りが夜遅くなることもあるのだそうだ。

手にさげていた大きなビニール袋には、たくさんのおむすびと水とうが入っていた。

「いつも、娘がお世話になっています。施設の人たちが、みんなでにぎってくれたんですが、よかったら、みなさんでいかがですか?」

のりの巻かれたおむすびを見て、ケイとサユリが歓声をあげた。翔太も、ピョンピョンと飛びはねた。

ケイとサユリの家族も呼んできて、みんなでおむすびをほおばると、まるで、キャンプにでも来たようだった。

晴香は、となりにすわった理恵のお母さんの横顔を見た。理恵に似て、意志の強そうな、きりっとした目もとが印象的だった。

理恵のお母さんは、晴香のお母さんと楽しそうに話していたが、ふと、晴香をふり返ると、かざらない笑みをうかべた。

「ごめんね。道が水びたしで、なかなかここまで来られなかったの。青山さんが、うちの子を誘ってくれたんでしょ?本当にありがとう」

理恵のお母さんの服は、まだ肩や背中がぬれていて、近くにいると、むっとした湿っぽい空気が伝わってきた。けれども、晴香は、それをいやだとは思わなかった。

ふだんは、口数の少ないお父さんも、ケイやサユリのお父さんとお茶をのみながら、いつになくきげんがよかった。

(台風の夜なのに・・・)

晴香は、そう思った。おそろしかったはずの台風が、みんなの心をひとつにしている。はげしい雨と風が、今も体育館の窓ガラスをたたいていたが、晴香は、もう、それをこわいとは思わなかった。

そして、しばらくすると、雨は小ぶりになりはじめた。

 

×    ×    ×

 

深夜になり、かたい床の上で眠りについた晴香が次に目をさますと、あたりはうっすらと明るくなっていた。みんな、毛布にくるまってまだ寝ていたが、理恵の姿だけが見えなかった。

ふしぎに思って、晴香がさがしに出かけると、理恵は、最初に会ったときと同じように体育館の入口で空を見上げていた。もう、その手に携帯電話はにぎられていなかった。

「おはよう」

晴香が声をかけると、理恵も笑顔で「おはよう」とこたえた。そのやさしげな表情は、今まで晴香が見てきた理恵のどんな顔よりも、まぶしくりりしく見えた。

「ほら見て。とてもきれい」

理恵が指さした空には、もうすぐ昇ろうとする朝日の白い光が満ちていた。雨雲は消え、星がひとつだけ見える。

(ああ、前に学校の先生が教えてくれたっけ。あれが、金星なんだな・・・)

晴香は、胸をそらせて大きく深呼吸をした。雨で汚れを落とされた空気は、とても新鮮ですがすがしかった。

理恵も、深呼吸をした。二人して、息を吸ったりはいたりしていると、心臓がドキンドキンと動いているのを感じる。

晴香は言った。

「杉村さんは、強いね。わたしには、あんなことできない」

「あんなこと?教室で、男子をなぐったときのこと?」

理恵には、細かい説明はいらなかった。「あんなこと」と言われて、すぐに転校まもないころの乱闘を思い出したのは、それだけ、あの事件が理恵の心の中で深い傷となっていることを物語っていた。

晴香は、胸が苦しくなった。理恵ほどの子でも、つらいことはつらいのだと思った。

「・・・わたしは、強くないよ」

しばらくしてから、理恵は、ポツリとつぶやいた。晴香は、理恵が怒ったのかと思ったが、そうではなかった。

光に照らされた理恵の横顔は、あいかわらずおだやかなままだった。そして、彼女は、そんな静かなまなざしを晴香のほうへ向けて、もう一度、「強くないよ」とくり返した。

「あのとき、わたしは、何もできなかった」

晴香は、少年たちのいたずらを見ていながら、知らないふりをしていたことを告白したかった。けれども、理恵は、そんな晴香をさえぎるように首を横にふった。

それから、体を晴香のほうへ乗りだして、思いきったように言った。

「ねえ、もし、携帯電話を持つようになったら、わたしにアドレス教えてくれる?」

晴香は、おどろいた。理恵から、そんなことを言ってくるとは、思ってもみなかった。

けれども、晴香は迷わずにこたえた。

「もちろん。でも、うち、携帯電話買ってくれるかなあ?お母さん、すっごくケチンボなの」

二人は、声をあげて笑った。笑いながら、晴香は、鼻のおくがツーンと痛くなるのを感じた。

風にあおられて、校庭の木々が、ザワザワと音をたてている。スズメがさえずり、雲が流れていく大空へと羽ばたいていった。

 

×    ×    ×

 

まもなくして、避難勧告は解除された。晴香たちの住む地域に、被害はなかった。家も無事だとの知らせが、水防団の人たちから伝えられた。

「今日は、学校、休みだって。さっき、お母さんのところに連絡網で流れてきたみたい」

ケイは、思いがけない休日に、ニコニコとうれしそうだった。

「じゃあ、あとでうちに来ない?」

晴香が声をかけると、ケイもサユリも「大賛成!」と手をあげた。

「杉村さんも、おいでよ」

「わたしも?わたしも、行っていいの?」

理恵は、目をまるくさせて、少しおどろいたようすだった。

「もちろんだよ。どこかで、待ちあわせしようよ」

晴香の言葉に、理恵は、ほっぺたに小さなえくぼを作った。こんな笑顔を見たら、クラスのだれだって、すぐにこの子のことが好きになるのにと、晴香は思った。

そう、これでもう心配ない。理恵は、きっとやっていける。

台風が過ぎたあとの青空のように、今日からは、おひさまがこの子のすべてを明るく照らしてくれるにちがいない。

そう思った。

 

小学校を出て理恵たちとわかれたあと、なつかしいわが家をめざした。家族の帰りを心待ちにしているであろう家の玄関のとびらが、晴香の目にあざやかに浮かんだ。

翔太の手を引いていたおばあちゃんが、もう片方の手で晴香の髪をなでながら言った。

「長生きすると、いろんなことがあるもんさ」

晴香は、うなずいた。本当におばあちゃんの言うとおりだった。

そして、何年、何十年たっても、わたしはこの嵐の夜のことをけっして忘れないだろうと思った。

家々の屋根から、白く水蒸気が立ち上っている。道端のアサガオが、こっちを見て!と語りかけているかのように、ところどころで紫の花を広げていた。

「家まで走っていこ!」

晴香は、おばあちゃんから翔太の手を引き継いだ。そして、あちこちに水たまりのある家への道をかけだした。