その夜は、さすがにハイキングの疲れもあって、どんなに悩んでいても、すぐに深い眠りに落ちてしまったが、翌朝の寝覚めは最悪だった。
ずいぶん歩いたせいで、ふくらはぎはパンパンだし、体全体が鉛を背負っているように重く感じられる。
朝になっても、蒼は、いなかった。幽霊だから、もう死ぬことも怪我をすることもないとは言え、さすがに何かあったのではないかと心配になってくる。
通学のため橙真を迎えに行くと、こちらは、ちゃんと黄門様が姿を現した。
「何?まだ、蒼のやつ、帰っておらんのか?ずいぶん時間がかかるのう。藍に何かあったら、どうするつもりなんじゃ」
珍しく真剣な顔をして、黄門様が腕組みをする。そういう自分だって、昨日は、おしっこもっちゃうとか言って、先に帰っちゃったくせに。
「少しは、気持ち、楽になったか?」
橙真が、藍の顔をのぞき込むようにして尋ねてきた。
「うん、平気。昨日は、ありがと」
いささか照れ臭い感じもして、藍は、橙真と目を合わせられなかった。
本当はうれしい。橙真に心配してもらえて、すごくうれしい。
しかし、蒼がいない不安はぬぐえない。
このままでは・・・、このまま何もできなければ、わたしは、確実に死ぬ。
放課後になるのを待って、橙真とともに桜公園に立ち寄ってみたが、ユウ君の姿はなかった。
グズグズしてはいられないと、二人して、ユウ君の自宅まで足を延ばす。
藍は、歩きながら考えた。
そもそも、死に向かおうとしているユウ君の気持ちを変えると言っても、どこで、それができたと判断すればいいのだろう?
人の心なんて、形のないものだし、ころころ変わるものだし、何をもってユウ君の運命が変わったと断言できるのだろうか?
そこのところがわからないと、期限が来なければ、自分が生きられるのかどうかもわからないことになる。
そして、もしも目的が達成されていないとなったら、もはや、弁解の余地もなく、藍は、その場で命を絶たれることになるのだ。
「二人とも、顔が怖いぞい。ユウ君が、家から出てこなくなってしまうよ」
今も同行している黄門様にたしなめられて、ハッとなった。
そうだ、焦ってはだめだ。焦れば焦るほど、ユウ君が遠く離れていく気がする。
ところが、そんな焦りと不安は、ユウ君の家に着いてみると、さらに大きなものになった。
「え、風邪?大丈夫なんですか?」
藍と橙真の前には、インターホンを聞いて玄関口に出てきたユウ君のお母さんが、ちょっと心配そうな顔に愛想笑いを浮かべて立っている。
「そんなにひどい熱ではないんですよ。たぶん、昨日の疲れが出たんだと思います。よほど、楽しかったんでしょう」
「熱、どのくらいあるんですか?」
「・・・四十度くらい」
「なっ!」
藍は、口を開けたまま、「それ、とんでもなく高い熱じゃないですか!」と言いたくなった。小さな子供が熱を出すのは、よくあることかもしれないが、四十度とは、いくら何でも高すぎる。
「病院に連れて行った方が・・・」
「ええ、今朝、連れていったんですが、今から、もう一度行ってみようと思っています」
「おまえ、支度が出来たよ」
ちょうどそこへ、毛布にくるまれたユウ君を抱き抱えたお父さんが、後ろから顔を出した。
ユウ君の顔は、トウガラシのように真っ赤だ。ハアハアと荒い呼吸をしながら、助けを求めるようにマイティロボを握りしめている。
これは・・・!
藍と橙真は、同時に顔を見合わせた。
もしかしたら、これは、ただの風邪ではないのではないか?この高熱が原因で、ユウ君は命を落とすことになるのではないか?
そんな不安が、一気にふくれあがった。
「すいません、何分こんな状況で。失礼します」
白井さん夫妻は、ユウ君を車に乗せると、あわただしく走り去ってしまった。
残された排気ガスの臭いをかぎながら、藍は、血の気が失せていくのを感じていた。
「おい、しっかりしろ。おれたちが、死神からユウ君を守るから心配すんな」
不意に姿を現したアカ子が、活を入れるように藍に言った。それでも、藍は、ショックを隠し切れない。
「ユウ君、いつから、あんな感じだったの?」
「熱が出たのは、深夜になってからでござるよ。初めは、大したこともなかったが、だんだん、ひどくなって」
藍の問いにムラサキ殿が答えた。
すると、ミドリちゃんが気になることを言い出した。
「でも、様子がおかしかったのは、その前からだよね?なんだか、ぽかんと考えごとしてるみたいな顔してた。わたしが、首をクルクル回すと、いつもはおもしろがって笑ってたのに、昨日は、全然だったよ」
ミドリちゃんが、例のオカルト現象でユウ君を笑わせていたというのは意外だったが、今の話、昨日の蒼ともそっくりだ。
二人の奇妙な共通点。
一体、何があったのか藍には見当もつかないが、ひとつだけ確かなことは、二人の異変が、昨日の死神事件の直後から発生したという事実だ。
「とにかく、三人は、ユウ君のそばにつていてあげて。わたしは、蒼を探してくる」
「わかった。任せておけ。死神のやつは、おれが必ず仕留めてやるからな」
アカ子の力強い言葉に、藍もコクリとうなずく。
「うん、ありがとう。期待してる」
そう言って三人を送り出した藍だったが、思わずその場へしゃがみ込んでしまった。
「どうしよう。これじゃあ、何もできないよ。ユウ君の熱が下がらないと、話をすることもできないじゃない」
もしかしたら、これも死神の作戦なんじゃないだろうか?ターゲットを病気にして、親しい人間から切り離せば、後は思いのままである。
「とにかく、今日のところは引き上げよう。明日、もう一度訪問して、ユウ君の様態を聞いてみるしかないじゃろう?」
「うん・・・」
黄門様に促されて立ち上がったものの、足取りは、あまりにも重い。隣にいた橙真が、猫背になっている藍の背中をポンポンとたたいた。
「そう落ち込むな。きっと、蒼さんにも何かわけがあるんだよ」
「わけって?」
「そいつはわからないけど、蒼さんは、決しておまえを見捨てるような人じゃない」
「・・・・・」
うん、そうだ。それは、そうだと思う。
蒼は、そそっかしくて、能天気で、失敗もたくさんやらかすけれど、困っている人間を見放してしまうような薄情さは、持ち合わせていない。
むしろ、逆である。
そもそも、幽霊の身でありながら、レインボーチームなどというふざけた名前のグループのリーダーとなって、死の間際にある人たちを救っているくらいなのだ。
藍の前から姿を消してしまったのには、必ず理由があるはずだ。
家にひとりでいるのは、あまりにも心細かったから、橙真と黄門様に頼んで、しばらく自宅に来てもらうことにした。
もっとも、本人から頼まれなくても、二人とも藍のそばを離れない方がいいと思っていたようで、久しぶりにレインボーチームのメンバーが、藍の部屋に三人だけそろうことになった。
とは言うものの、せまい部屋で顔を突っつき合わせたところで、何をすればいいのかわからない。
「とりあえず、お茶でも入れるね」
間が持たなくなった藍が、キッチンに立ち上がりかけた時だった。
異変は、唐突に起こった。まだまだ、日暮れまでには時間があったが、来客のためにつけた部屋の蛍光灯が、突然、パチンという音を立てて消えたのだ。
蛍光灯だけではない。軽快に回っていたエアコンのファンも、停電したかのように止まっている。
ブレーカーが落ちた?いやいや、違う。
これと同じ現象が、かつてこの部屋で起こった。そして、その時、やってきたのが・・・。
「テレビ!」
思わず藍が叫んだのと同時に、テレビ画面に光が入った。ザーッという砂嵐のような映像の後、ほとんど白黒に近いノイズだらけの荒れ地が映る。
「な、なんだ、これ?ホラー映画みたいじゃんか!」
恐怖に顔を引きつらせている橙真とは対照的に、藍の表情は、パッと輝いた。
瞳を凝らすと、荒い画面の向こうにひとりの人影が見える。
そうよ、これこれ!蒼が初めて藍の部屋にやってきたのと同じ、このシチュエーション!
「蒼!」
両手のこぶしを握りしめながら歓声をあげた藍を見て、橙真が、「ええっ?」と驚きの声をあげる。
そうだ、画面の中央にいるのは、間違いなく蒼だ。ほっそりとした体形に長い髪、白い着物。
でも、前回とは様子がいささか異なっている。蒼の体が、遠くにあって、豆粒のように小さいのだ。
そして、その背後から迫る土煙・・・。
「藍ぃぃっ!そこどいてぇ!」
「えっ、何ぃ?」
「今から、そっちに飛び込むから、すぐにコンセント抜いてぇ!」
そう言われて、よくよく画面に顔を近づけてみれば、全力で走ってくる蒼を追いかけているのは・・・。
「鬼じゃ!」
黄門様の一言で、相手の正体がはっきりした。
まるで昔話に出てくる筋肉ムキムキの赤鬼青鬼が、三人、四人・・・、ううん、ざっと二十人くらいだろうか?ギョロギョロした目を血走らせて、ごつごつの棍棒を振り上げている。
「待ていっ!」
のけぞりそうになったのは、藍たち三人だ。
「ひいいっ、蒼、何したの?」
閻魔大王様や死神が実在するくらいだから、もはや、鬼がいたところで驚くような藍ではなかったが、さすがに激怒した鬼たちは、遠目に見ても圧巻の大迫力である。
「橙真、わたしが蒼を受け止めるから、鬼たちが来る前にコンセント抜いて!」
「オッケー!」
いよいよ目の前に迫ってきた蒼を抱き止めようと身構える藍と、コンセントに指をかける橙真。
四コマ漫画みたいに白目をむいて怒っている鬼たちと蒼の間には、それでも、まだ、わずかな開きがあった。
「今じゃっ、それ!」
黄門様のかけ声とともに、思いっきりテレビ画面の向こうからジャンプを試みた蒼が、すごい勢いで画面をくぐり抜け藍に飛びついてくる。
と同時に、コンセントが引き抜かれたことによって真っ暗になったテレビ画面の向こうから、ゴォォォォンッという鈍くかわいそうな音が・・・。
「痛ったあっ!」
「うわあ、押すな、押すなあ!」
「なんじゃ、この見えん壁はーっ?」
鬼たちの悲鳴は、たちまち小さくなって、エコーとともに消えていく。
が、被害を受けたのは、藍の方も同じである。蒼に抱きつかれた藍は、そのまま後ろに倒れ込んで、こちらも、いやと言うほど頭を床に打ち付けてしまった。
「うううっ、痛ったあ~い!もう、いったい、何なのよぉ!」
後頭部を押さえてうめく藍だったが、それもつかの間、すぐに喜びが沸き起こってきた。
「いやあ、あの連中、あんなに追いかけてくるとは思わなかったね~」
のんきな蒼の一言に、藍は、悲鳴にも近い声を張り上げた。
「蒼!今までどこ行っちゃってたのよ?心配したんだからあ!」
怒りたいのに怒れない。うれしくてうれしくて、目頭にじんわりと涙がたまった。
「ごめん、ごめん。ちょっと、あの世にある閻魔大王様の公文書館に忍び込んでて」
「公文書館?」
「あれ?黄門様から聞いてなかったっけ?わたしの行き先」
その言葉に、みんなの視線が、いっせいに黄門様に集まる。
「ほえ?そんな話、してたかいの?」
「・・・・・」
初夏だというのに、氷のように冷たい空気が部屋に張り詰めたのは、けっして、気のせいではなかったはずだ。
三秒後、蒼の逆エビ固めが黄門様に炸裂していたことは、言うまでもない。
「な、なんじゃ、年寄りいじめると、ろくな死に方せんぞお~!」
「うるさい!わたしたちは、もう、死んでるんだよ!」
悲鳴をあげている黄門様を尻目に、藍の疑問は、ふくれあがる。
「閻魔大王様の公文書館って何?そんなところに、何しに出かけてたの?」
「う~ん、何しに行ってたかは、秘密。そのうち教えるよ」
「何それ?今、知りたい」
「今はだめ。藍にとって、いいようにはならないから」
「え~っ」
その後、どんなにせがんでも、蒼は、閻魔大王様の公文書館に行った理由を教えてはくれなかった。
黄門様によれば、閻魔大王様の公文書館というのは、全ての死んだ人たちの個人情報が収められている場所らしい。
そこは、関係者以外立ち入り禁止となっていて、屈強な鬼たちが警備についているという。
「そんなところに忍び込んだの?ひとりで?」
「うん。案外、簡単だったよ。あいつら、ここの中身が足りないから、『新入りの事務員で~す』って言いながら睡眠薬入りの栄養ドリンクふるまったら、あっという間に、グーグー寝ちゃった」
蒼は、自分の頭を指差してケタケタ笑っていたが、本当になんて無茶なことをする人なんだろう。
「それで、鬼たちに追いかけられていたってわけね?」
「ちょっと、悪いことしちゃったかなあ。痛そうな音してたもんね。まあ、あんな程度で怪我するような連中じゃないけど」
「はあ~っ」
もう、やることが突拍子なさすぎて、ため息しか出てこない。
でも、感心したりあきれたりしている場合ではなかった。こちらにも、伝えなければならない重大な話があるのだ。
「えっ?ユウ君が病院に?」
「そう、とんでもない熱なの。このまま死んじゃうんじゃないかって、すごく心配してるの」
藍の報告に、さすがの蒼も深刻な表情になったが、すぐに気を取り直して自分の胸をドンとたたいた。
「大丈夫。わたしが戻ってきたからには、絶対にユウ君を救って見せるから。もちろん、あなたもね!」
ウインクしてみせる蒼が、こんなに頼もしく思えたことはない。もはや、蒼の存在は、藍の中で地球よりも大きなものになっている。
その後、白井さんのご主人から電話がかかってきて、ユウ君の様態が、ひとまず落ち着いたことがわかった。
「まだ、原因がはっきりしないので、しばらく病院で様子を見ることになりました。このまま、熱が引いてくれるといいのですが」
現在のユウ君の体温は、三十七度台まで下がっているという。それを聞いて、少しだけホッとできた藍であった。
しかし、油断は禁物だ。今この瞬間も、死神は、どこかで藍やユウ君の命をねらっているはずなのだから。
なぜ、死神が藍の命まで奪おうとしているのかは、依然として謎のままだったが、少しでも隙を見せれば、三度襲ってくるであろうことは間違いない。
とはいえ、レインボーチームが藍とユウ君をしっかりガードしている今となっては、うかつに手出しできないことも事実だった。
反対に、ユウ君が病院にいる以上、藍たちとて、できることは限られている。
「膠着状態だな」
次の日、教室の窓からユウ君のいる病院の方角を眺めていた藍は、隣にやってきた橙真の言葉でわれに返った。
「そうだね・・・」
焦る気持ちは相変わらずだが、蒼が帰ってきてくれたことで、かなり落ち着きを取り戻した藍は、静かに事態を認めた。
昼休みの教室には、十人ほどのクラスメイトがいる。それぞれ、いくつかにまとまって雑談に興じているから、藍たちの会話には、だれも興味を持っていない様子だ。
それをいいことに、蒼も、姿を消したまま、こっそりと会話に加わってきた。
「もしかして、このまま、何も起こらないうちに期限が来ちゃうと思ってる?」
「えっ?まあ・・・」
「心配ないよ。絶対に事態が動く時が来る」
蒼の確信に満ちた声に、藍は、心を動かされた。
「どうして、そう言えるの?」
「ユウ君の気持ち」
「はい?」
「ユウ君の気持ちは、このまま治まらない。熱が下がれば、きっと、何かをやらかしてくれるよ」
「何かって・・・」
閻魔大王様の公文書館に行って、何を調べてきたのかわからない藍にとっては、蒼の言うことは、今ひとつピンとこない。
それでも、蒼には、思うところがあるようだ。
「ムフフフ、今にわかるよ。もっとも、何が起こるかは、わたしにも、わかんないんだけどねえ」
「もう、何よそれ?期待して、損しちゃった」
なんだか、的を得ない蒼の話ではあった。
それからというもの、藍は、蒼の言葉を信じようと自分に言い聞かせて、日々を過ごした。死への期限が迫る中で、一日一日の重みが、ずっしりと肩にのしかかってくるような気がした。
蒼のことは信じているけれど、それでも、怖い気持ちは否定できない。
死神が怖い。運命が怖い。そして、死の瞬間のことを考えるのが、とてつもなく怖い。
「本当に何もないの?」
ある晩の夕食時、とうとう、母さんが、恐ろしく真剣な目をして藍にたずねた。
母さんが娘の心配をするこんな質問は、これで三回目だったが、今回ばかりは、詰問にも似た強い響きを持っていた。
母さんは、日に日にやつれていく娘の様子に、我慢できなくなったのだ。
あくまで、娘の方から打ち明けることを期待していた母さんだったが、もはや、そんなことは言ってられないほど、藍の憔悴は明らかだった。
「ねえ、答えてよ。母さんにできることは、何でもするから。学校で何かあるの?それとも、他の理由?何もないわけじゃないよね?」
もう限界だと、藍は思った。もう、ごまかすことはできない。
母さんに心配をかけたくない気持ちに変わりはなかったが、真実を隠すことで、かえって母さんに心配をかけている。
「母さん、わたしが死んじゃったら、悲しんでくれる?」
その言葉を聞いて、母さんの顔から血の気が失せた。明らかにそれとわかるように、母さんは、狼狽していた。
「何を言ってるの?バカなことは言わないで!」
「バカなことじゃないよ!わたし、もうじき死んじゃうんだから!」
「何?それ、どういうこと?」
張りつめた空気で、呼吸が苦しくなってくるほどだった。
今はこれまでと、藍が、口を開きかけた時、どこかから蒼の声が聞こえてきた。
「藍、いいよ。わたしから話すから」
せまいリビングの中に娘と自分以外の第三者の声を聞いて、母さんは、文字通り椅子から飛び上がった。
悲鳴をあげるかと思ったが、そんなことはなく、むしろ、周囲に鋭い視線を走らせて、娘を守るために戦う母の顔になっている。
「待って、母さん!蒼は味方なの。悪い人じゃないから!」
藍が叫ぶそばから、蒼は、その姿を母さんの前に現した。その雪女のような容姿に、母さんの警戒心がますます強くなる。
それとは正反対に、いつになく物静かで落ち着いた蒼の声が、リビングに響いた。
「初めまして。と言っても、この家にしばらく滞在させてもらっていたわたしには、初めてではないんですけど」
蒼は、口もとに微笑をたたえて、目を細くしている。
ここで驚いたのは、本物の幽霊を目にしても、母さんが極めて冷静な態度を取っていることだ。キャーキャー叫んで枕を振り上げた藍とは、大きな違いである。
「あなたは、だれなの?」
「わたしは、蒼。あなたの娘さんを死の淵から救うために、あの世から派遣されてきた者です」
「派遣?派遣って、だれから?」
「閻魔大王様から。あなたの娘を救うよう閻魔大王様に依頼したのは、亡くなったあなたのご主人です」
はあ~っという大きな吐息が、母さんの口からもれた。と同時に、藍は「ええっ!」と、両手で口を覆って叫んでいた。
「蒼、それ本当なの?父さんが、閻魔大王様に頼んでくれたの?」
「こういう言い方は、酷かもしれない。でも、あなたのお父さんが亡くなっていなかったら、あなたの方が先に死んでいたのよ」
「・・・・・」
「依頼人の名前は、絶対に教えてもらえないことになってる。でも、今回の件は、あまりにも不可解だったから・・・」
「閻魔大王様の公文書館で調べてきたのは、そのことだったのね?」
「そういうこと。もっとも、あそこへ忍び込んだ理由は、それだけじゃないんだけどね」
藍は、母さんと顔を見合わせた。
思いがけなく、蒼の口から父さんの話題が出て、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない藍と、そもそも、今起きている現実が理解しきれていない母さん。
二人がクスクスと笑い出した様子は、傍から見たら、ちょっと不気味だったかもしれない。
幽霊である蒼の方がおびえてしまって、「二人とも大丈夫?目が行っちゃってるよ」なんて、冷や汗をかいている。
けれども、藍はうれしかったのだ。
わたしたちは、亡くなった父さんに、ちゃんと見守ってもらっている。
そう考えただけで、死に対する暗いイメージが、現実世界から続く当たり前のものとなって、このところ沈みがちだった藍の心を明るくさせた。
「もしかして、蒼は、死んだわたしの父さんにも会ってきたの?」
「ううん、それは無理。わたしたちが亡くなった人の魂に触れることは禁止されているから。わたしみたいに、幽霊になっていれば別だけどね」
「そうか、それなら、父さんにも幽霊になってほしかったな。そしたら、こんなふうに、毎日会えるじゃない?」
「何言ってるのよ。幽霊にならなかったってことは、成仏したってことでしょ?そっちの方が、よっぽどおめでたいわよ」
そうか、そういう考え方もあるのかと、藍は思った。
蒼と話していると、死が、あまり怖いものに思えなくなってくる。
けれども、蒼は、そんな藍の心を見透かしたのか、強い調子で付け加えた。
「かと言って、藍は、まだ、成仏なんかしちゃあだめよ。お母さんがいるんだから」
蒼は、そう言って母さんの方へ向き直り、「安心してください。あなたの娘さんは、絶対に死なせません」と、断言した。
「はい・・・」
「まだ、わたしの言ってることが、信じられないかもしれませんけど」
「はい・・・、いや、えっと、いえいえ・・・」
根本的に蒼が敵でないことだけは、母さんも、わかってくれたみたい。
何とか話ができるスタンスまで持ってくることができたと判断したのか、蒼は、今に至るまでの事のいきさつを母さんに説明した。
藍と出会った時のことや、レインボーチームのこと。
ユウ君の命を救うことが、そのまま、藍の命を救うことにもなるということ。
隣の橙真も、こうした事実を知っているのだということ。
ただし、蒼は、死神についての話だけは、一言も語らなかった。もしも、自分の娘が死神から命をねらわれているのだと知ったら、さすがの母さんも、今度こそパニックにおちいってしまうだろう。
もしかしたら、蒼は、藍が母さんに死神のことも話してしまうのを恐れて、あえて母さんの前に姿を現して自分で説明しようと思ったのかもしれない。
母さんは、あまりにも非現実的な蒼の話を、落ち着いて聞いていた。娘の命を救いたいという一心が、母さんを、そうさせていたのだろう。
それに、実際に幽霊がいるとわかった今、蒼の話を否定する理由は、ひとつもなかった。
人前ではめったに見せないが、若いころの母さんには、とんでもなくイケイケなところがあったと父さんから聞いたことがある。全ての話を聞き終えた時、母さんは、決意のこもった目で娘を見つめて、こう言ったのだ。
「よかった。お父さんが見守ってくれているなら、心配ない。大丈夫、あなたは助かる。ううん、だれが、あなたを死なせるもんですか!」
最後の一言は、目に見えない何か、残酷な運命に対する怒りのようにも思えた。
藍も、力強くうなずいた。そして、母さんの胸に顔をうずめて、思いっきり泣き出した。
やっと、打ち明けられた。大好きな母さんに、今日までの苦しみを、とうとう打ち明けることができた。
涙は、後から後から出てきて、なかなか止まってくれなかった。
藍は、近ごろ泣いてばっかりいるなあと、鼻をすすりながら思った。それから、どうして、こんなに泣けるんだろうと考えたりした。
考えて考えて、ひとつだけ答えがわかった。
つらいこととか嫌なこととか、生きていくのは大変なことの連続かもしれないが、この世界は、失ってしまうには愛しすぎるものであふれているのだ。
たぶん、その愛しすぎるもののいちばんが、家族なのだろう。その家族を失ったユウ君の目には、現実の世界は、どんな景色として映っているのだろうか?
そこがわからなければ、ユウ君の本当の心に触れることはできない。
その夜は、久しぶりに母さんのベッドにもぐり込んで寝た。
母さんとひとつの布団で寝るなんて、小学生の時以来、いや、父さんが亡くなって以来のことだった。
小さい時は、よく、父さんと母さんの間にぬいぐるみを抱えたまま割り込んで寝させてもらった。
数年ぶりに母さんの温もりを感じながら目をつぶっていると、家族で過ごした昔の思い出が次々によみがえってくる。
藍の手には、父さんの形見となった、あのビーズの首飾りが握られていた。こうしていると、父さんも、一緒にいてくれるような気分になれた。
父さんがいなくなって、あらゆることが変わってしまった。
けれども、藍の心の中にある家族の姿は、何ひとつ変わっていない。
「本当に、びっくりしちゃった。まだ、夢を見てるみたい。もしかしたら、今も夢を見ていて、目覚ましの音で覚めるんじゃないかって思っちゃうくらいだもの」
暗がりの中で見えないが、母さんがいたずらっぽく笑っているのがわかった。藍も、苦笑いを浮かべた。
「わたしだって、そうだったよ。最近、やっと慣れてきたところ」
「でも、いい幽霊さんが味方になってくれてよかったね。お父さんに感謝しないと」
「うん、ちょっと、おっちょこちょいな幽霊だけどね」
この瞬間、蒼は、藍の部屋にいて、藍のベッドでスーピースーピー寝息を立てている。
幽霊は寝ないとか言ってたくせに、「久しぶりの布団だあ!」と叫びながら、うつ伏せの姿勢で大の字になってベッドへ飛び込み、しばらくクロールとか平泳ぎをやっていたが、そのうち、コロンと眠ってしまった。
「幽霊にも、性格があるのね」
「そりゃそうよ。生きていた時の続きだもん」
母さんの言葉に何げなく答えて、藍は、ひとりでおかしくなった。今のは、まるで、蒼のセリフみたいだ。
幽霊になんか、なっちゃだめだと蒼は言うが、その幽霊の気持ちが、すごく身近なものとなっているのを、藍は、ひしひしと感じていた。
「蒼は、明るいのよね。孤児だったって言ってたけど」
「孤児?そっか、じゃあ、そのユウ君って子と同じ境遇なんだ」
「うん。だから、閻魔大王様から今回の担当に選ばれたんじゃないかって言ってた。でも、よくわからないんだ。どうして、ユウ君の命を救うことが、わたしの運命を変えることになるんだろう?」
藍は、横になったまま首をかしげたが、母さんからの答えは、しばらく返ってこなかった。
寝ちゃったのかな?と、藍が思った時、母さんは、ポツリとこぼすように言った。
「母さん、ちょっと、わかるかも・・・」
「えっ?なあに?」
けれども、母さんは、それ以上、何も言わなかった。
どうしたのかと思って顔をのぞき込むと、今、会話をしていたばかりなのに、もう寝息を立てている。
過酷な病院勤務で、普段から疲れているのを知っている藍は、母さんの肩に布団をかけ直してから、仰向けになった。
本当は、その先の言葉を聞きたかったが、もしかしたら、寝ぼけていたのかもしれないと思い直した。
そして、もう一度、思い直した。
ううん、母さんは、寝ぼけてなんかいない。職場で、生と死の狭間にいる人たちを数多く見てきた母さんには、きっと、何かわかることがあるに違いない。
明日になったら、聞いてみよう。朝は、お互いに忙しいから、仕事から帰ってきたところで、今日の会話の続きをしよう。
母さんは、どんなことを言ってくれるだろうか?