第三章

小さな揺れで目が覚めたのは、翌日のことだった。

昨夜の出来事があまりにも衝撃的だったのか、フェラーリ君そっくりのシフォンケーキに丸ごとかぶりつこうとする夢の途中で、ソラは、背中から揺さぶられて目を開けた。

もう、せっかくいいとこだったのに、なんで起こすのよぉ。なんて、寝ぼけ眼で自分の部屋の天井を見上げたとたん、実際に体が揺れていることに気づいた。

「ひっ、地震?」

震度三くらいだろうか?いや、横になった姿勢で体が揺り動かされたくらいだから、震度四はあったかもしれない。

慌ててベッドから飛び起きて、階下のリビングに向かう。

「おはよう、揺れたよね?」

すでに、テレビの前で画面に見入っていた父さんと母さんが、こっちを振り向く。

「おはよう。震度四だって、ここは」

父さんが言った。

「でも、西の方では、震度六いったみたい」

「え・・・」

母さんの言葉に、ちょっとショックを受ける。震度六と言ったら、かなりの揺れだ。結構な被害があったかもしれないと、ソラは、テレビの緊急速報に釘づけになる。

「あっ、火が出てる」

画面をのぞき込んでいたソラの声が、思わず大きくなった。自衛隊から提供されたという上空からの映像に、小さな赤い炎が映っていた。黒い煙も、幾筋も立ち上っている。

「いやあ、これはひどいな」

父さんの声にも、緊張感がある。

「施設の方は大丈夫かな?先に連絡を入れてみよう」

これから出勤の父さんは、勤め先の介護施設に電話をかけ、母さんは、朝食の支度を急ぎ始めた。

「ちょっと早出するね。ソラ、鍵をお願いね」

両親の職場が介護施設や病院だったりすると、こういう時が大変だ。停電はしていないか?水道は大丈夫か?

震度四くらいでは、大した被害は出ていないかもしれないが、病人や体の弱いお年寄りを相手にしているだけに、医療用の精密機器のチェックなど繊細な配慮が必要だ。

ソラは、幼いころからこうした両親の姿を目にしてきた。だから、健康を失った人たちの命を守ることがいかに大変であるかを、なんとなく肌で知っている。時には、仕事優先で自分の子供のことを後回しにされている感じを受けないこともなくはなかったが、それを不満に思ったことはない。

味噌汁をかけたお茶碗のごはんを胃袋に流し込むようにして両親が出勤してしまうと、ソラは、ひとりで朝食をとり、家に鍵をかけて学校へ向かった。

昨夜、出歩いたせいか、制服に着替えてからも、まだ眠気が残っている。思わずあくびをしていたら、同じようにあくびをしているセイジと学校手前の四つ角で鉢合わせになって、びっくりした。

「あ、おはよう、ソラ」

「おはよう。セ・・・セイジ」

呼び捨てでいいと言われていたものの、実際に男子の名前を呼び捨てにするのは、結構、勇気がいる。なんか、カップルになったみたいな距離感が生まれてしまうからだ。

「えっと、昨日、あれから眠れた?」

平静を装って尋ねたものの、今度は、昨夜の恥ずかしさが舞い戻ってきた。なんと言っても、あのパットマンになった姿を見られてしまったのである。

「ううん。あまり、寝られなかった。老師様のインパクトが強烈すぎて」

「そ、そう」

ああ、よかった。強烈なインパクトだったのは、老師様の方でパットマンではなかったのね。と、素直に受け取っていいものかどうかはわかりかねたが、セイジが、ごく普通に応対してくれたので、ほっとした。

「それで、今朝の地震だもんな。なんか、頭がクラクラする」

「ホントね。わたしも、びっくりして飛び起きちゃった」

こんなふうにセイジと並んで登校する姿を、他のクラスメイトが見たら、なんて言うだろう?セイジとごく普通に会話しながら、ソラは、一抹の不安を覚えてしまう。

「でも、今朝になって冷静に考えたら、オレたち、とんでもない経験をしたんだって実感がわいてきた。なんてったって、宇宙人だもんな」

「本当に宇宙人かしら?」

「だろ?あんな不思議な変身ベルト、地球にあるわけないよ」

「うううっ、そだね・・・」

変身ベルトに話題が振られて、ソラの声が小さくなる。

「どうかした?」

「あの変身ベルト・・・」

「ああ、気にするなって。だれかに見られたわけじゃないし。今も持ってる?」

「うん、カバンのいちばん奥に隠してある。家の鍵と同じポシェットに入れて」

昨日の別れ際、ソラは、老師様から耳にタコができるほど忠告されたのだ。変身ベルトは、決して手放してはならない。いついかなる時も、身に着けておくようにと。

こんなもの、四六時中腰に巻いてたら、それこそ変質者だと思われちゃうじゃない!と、ソラが猛烈に抗議したところ、老師様は、緑のボタンをもう一度押せば、変身ベルトがコインの大きさになると説明。逆に赤いボタンを押せば、通常の変身ベルトの大きさに戻り、更に赤いボタンを押して「へんし~ん!」ってやれば、パットマンになるという。

つまり、赤いボタンも緑のボタンも、二段階式になっているというわけだ。

これは、ソラの推測だが、老師様がどこからともなく立鏡を取り出したりしたのも、同じ理屈によるのではないか?もっとも、その理屈がどんなものなのか見当もつかないけれど。

「でも、これって、どういう時に使えばいいの?老師様は、世界の平和を守るみたいなこと言ってたけど」

「さあ、ヒーローものに出てくる悪役みたいなのがいればわかるけどな。でも、ソラ、そんなのと戦えるか?」

「戦えない。ケンカこわいもん」

「だよな。普通は、そうだよな」

「セイジは、こわくないの?ケンカ」

話の流れで思わず尋ねてしまったが、これ、かなり微妙な質問だったかもしれない。だって、目の前にいる男の子は、転校してきてから毎日のようにもめ事を起こしている問題児、磯谷セイジなのだから。

ところが、セイジは、そんなソラの不安などおかまいなく、こともなげに言った。

「そうだな。ケンカなんてしたくないな。殴り合いになんかなったら、痛い思いをするだけだし、いろんなところから怒られるし。事件になって、警察に捕まっちゃうかもしれないからな」

これを聞いて、ソラは唖然とする。

「だったら、ケンカなんかしなければいいのに」

思わず言ってしまった。言ってしまってから「しまった」と思ったが、後の祭りである。

セイジは、キョトンとした目をしてソラを見返していたが、考えを巡らせるように首をかしげてから、「そうだな。ソラが言うんなら、そうするよ」と、あっけなく答えた。

「はい?」

「もめごと起こさないように気をつける。因縁つけられたら別だけど」

「へ?」

何?この、軽薄な展開?人の心とか振る舞いって、こんなに簡単に改められるもの?

なんだかキツネにつままれたような感じがしたが、「それより」と話題を変えたセイジの視線の先に注意が移った。

セイジは、神妙な面持ちになって、あたりを見回している。

「なんか、おかしくない?」

「おかしいって?」

「学校、目の前なのに、人がだれもいない」

そう言われて、ソラは、初めて周囲の環境の異常に気づいた。セイジが言う通り、たしかに人の姿が見えない。学校の校門は、もうすぐそこだというのに、登校する生徒の姿がない。いつもジャージ姿で立っている、見守り役の先生もいない。

それどころか、走っている車もなければ、玄関先をほうきで掃いている主婦とか犬の散歩をしているおじいさんとか、そういう当たり前の人々の影がどこにも見当たらないのだ。

「ホントだ。なんだか、気味が悪い」

「この時間におれたちしかいないって、絶対に変だよね?」

そう二人が不安げに顔を見合わせた時だった。いつの間に立っていたのか、校門の前に見覚えのある人影が!

「二人とも登校してくるのが遅い!今、何時だと思っとるのじゃ?」

ああ、やっぱり、この人だった。もじゃもじゃの長い白髪に、ぼろ布まとった仙人みたいな老人。

「老師様!」

ソラとセイジ、二人同時に叫んだ。

こんな朝っぱらの人目につきやすい場所に出現しちゃって、この宇宙人は、何を考えているのだろう?

もっとも、見た目だけで言えば、足が八本あるとか、グレイみたいに頭が異常に大きいとか、そういう異形ではないので、人類ということで通せないこともない。が・・・。

「な、なんで、こんなところにいるの?門番の先生は?」

「先生は、ここにおるよ。まわり中、おまえさんたちと同じ登校中の生徒でいっぱいじゃよ。見えてないだけでな」

ソラの質問に、老師様は、あごひげをなでながら答える。

「見えてない?もしかして、パラレルワールドってことですか?」

今度は、興奮した面持ちでセイジが問いかけた。

「まあ、地球の認識では、そういうことになるな。じゃが、まわりの者からしたら、見えていないのは、おまえさんたちの方ということになる」

「うわあ、すごいな!これも、老師様がやったの?」

「ふぉっふぉっふぉっ、まあ、そういうことじゃな。どうじゃ?わしのこと、見直したじゃろう?」

こういう自己愛強すぎなところが見直せないんだよなあと思いつつ、ソラもセイジも、表面的にうなずいて見せる。

「・・・なんて、そんなこと言っとる場合じゃなかった。ソラよ、おまえさん、変身ベルトのアラームが鳴ったら、すぐに変身してSOSが発信されている現場に急行しなければだめじゃろうが」

「は、はい?」

「今朝の地震じゃ。アラーム鳴ったろうが」

そう言えば、聞きなれないアラームが鳴っていた気がする。目覚まし時計の音かと思って、寝ぼけ眼で枕元の時計のタイマーを解除したのを覚えている。

「待ってよ。地震が起こってアラームが鳴ったら、なんで、わたしが変身ベルトで変身しなきゃならないわけ?」

当然のように食いついたら、「バカもん!」と、思いっきり怒られてしまった。この老人は、月が出ている時も太陽が昇っている時も、いつも機嫌が悪い。

「ニュースを見なかったのか?震源地の近くでは、建物が倒壊して生き埋めになっている人たちがおるというのに」

「そ、そんな。そりゃあ、生き埋めになった人は気の毒だけど、変身したからって、わたしに何ができるのよ?」

「それができるのじゃ。そのための変身ベルトなのじゃ。おまえたち、今朝の地震の原因が何であるかわかるか?」

「原因って、地球の地面が動いていて、大きな岩盤みたいなのがお互いにぶつかり合っているからでしょ?プレートテクトニクスってやつ。授業で習ったよ?」

「そうか、勉強は、ちゃんとしておるようじゃな。じゃが、今回の地震の原因はそれだけじゃない。人為的な力が働いてのものじゃ」

「人為的?」

ソラとセイジは、顔を見合わせた。

人為的に地震を起こすなんてことできるの?ああ、そうか。地下で核爆発の実験をするとか?

老師様は、もともとのいかめしい顔をさらにいかめしくして続けた。

「おまえさんたちが戦う相手は、ただの地震などではない。これはな、魔女の仕業なのじゃ。魔女メデューサが、地球を征服しようとして起こしたことなのじゃ」

「・・・・・」

思わず、ぽっか~んとなった。

え、え~と、今、魔女って言いました?ボロUFOに乗ってやってきたうさん臭い宇宙人が、何を言い出すかと思ったら、今度は、魔女ですか?

なるほど、世界には、いろいろと不思議なことがいっぱいかもしれないけど、ほう、とうとう魔女のご登場ですか?こりゃ、めでたい!

「この世に魔女がいるとおっしゃるのですね?」

「う~む、信じられぬかもしれんが、おるのじゃ」

このジジイ、一度、殴ったろか!

もう、こんなことなら、町はずれの森までUFOなんて探しに行くんじゃなかった。

ソラが想像してきた宇宙人は、もっとスマートで理性的で、こちらの望みを何でもかなえてくれる魔女ならぬ魔法使いのような存在だった。

でも、実際に会った宇宙人ときたら、みすぼらしい格好でガミガミ怒鳴って無理難題を突きつける困ったおじいちゃんでしかない。

「とにかく、変身じゃ、変身!どうせ、誰からも見えておらんのだから、恥ずかしがる必要もなかろう」

「えーっ、やだあ!」

思いっきりイヤだという気持ちを込めて訴えてみたものの、老師様は、頑として譲らない。

「困っている人たちを救うためなのじゃ。わかってくれ」

そう言われてしまうと、反論の言葉が浮かばなかった。

ずるいよ、老師様。被災者を出汁にするなんて。それに、いちばんパットマンの姿を見られたくないのは、となりにいるセイジだったりするのに。

カバンの奥の方からポシェットに入った変身ベルトを取り出し、赤いボタンを押す。すると、ベルトは、たちまち本来の大きさに戻って、変身ごっこに使う子供のおもちゃそのものの見た目になる。

最近、くびれの少なさが気になる腰に巻いて、あ~あ、しょうがないなあ。

もう一度、赤いボタンを押してから、「へーんしーんっ!」と、やけくそになって、お面ライダーのものまねをしてみた。このポーズ、本当に必要なんだろうかと疑問に思いながら。

「おおおっ!」

歓声をあげる老師様とセイジの目の前で、昨夜の変身シーンが再現された。

魔法少女のような、きらびやかな変身シーンとは似ても似つかないグロテスクなトランスフォーム。およそ、この世のものとは思えない不思議な現象を目の当たりにしているのに、うれしい気持ちは、ちっとも起こらない。

「フハハハハ!呼ばれて飛び出て、パットマン参上!」

ああ、やっぱり言ってしまったこのセリフ。

こうなってしまったからには、もう、ソラ自身の感情は、どこかに押し込められてしまう。パットマンは、ソラではなくパットマンなのであって、基本的に全身黒アクタースーツの変なおじさんなのだ。

「ようし、それでよい。なかなか頼もしい姿じゃぞ。そのまま被災地まで飛んでいくのじゃ」

(えっ、飛ぶ?)

パットマンの中で、ソラは耳を疑った。

(飛ぶって、まさか、わたし飛べるの?)

けれども、ソラの疑問は、表面には表れない。

「フハハハハ!よろしい!わたしに任せたまえ!」

そう言って、「とおっ!」と飛び上がったパットマンだったが、周囲の期待に反して、そのまま地面と激突。

(いった~い!)

しかめっ面のソラとは裏腹に、パットマンは、まるでめげた様子もなく「なんと、飛び方を忘れてしまったか。フハハハハ!」と豪快に笑った。

「落ち着けソラ。落ち着いて、自分が空を飛ぶ姿を思い浮かべるのじゃ。自身に飛べるんだと言い聞かせてみい」

そんなこと言ったって、鳥じゃないんだから、生まれてこの方、空を飛んだことなんて一度もない。実を言うと、飛行機に乗ったこともない。羽も生えてないのに、空を飛ぶことなんてできるはずがないじゃない。

そう愚痴をこぼしてみたものの、パットマンに変身している以上、ソラの心の声は、この節操のないおじさんヒーローにかき消されてしまう。

「心を静かに。大丈夫、飛べるはずじゃ。おまえさんは、わしが見込んだパットマンなのじゃから」

「・・・・・」

老師様に励まされて、深呼吸をしてみた。それから、大真面目に空を飛ぼうとしている自分に少々あきれながら、口に出して言ってみた。

「飛べ・・・というか、どうか飛ばせてください・・・」

フワンとめまいにも似た感覚を覚えた。ホバーリングという言葉が正しいだろうか?ヘリコプターやドローンが、空中で静止しているあれである。

今、パットマン、つまりソラの体は、地面から十センチほどの高さでフワフワと右に揺れ左に揺れ、なんとかバランスを保っていた。

(うそ?ホントに宙に浮いてる?)

いちばん驚いているのは、当のソラ本人である。たしかに浮いている。空を飛ぶというには、あまりにもささやかなものだったけれど、ソラの体は、たしかに空を飛んでいるのだった。

「うわあああっ」

思わず叫んだ。

「ぬおおおおっ」

パットマンもうなる。そのおかげで、せっかくのソラの歓喜も一瞬にして台無しになった。

「と、飛んでる!動力もないのに飛んでる!」

興奮しているのは、むしろセイジの方だ。セイジは、顔を紅潮させて老師様にたずねた。

「これって、ソラの力なんですか?」

「もちろん、変身ベルトあっての話じゃが、そもそもの力の源は、ソラ自身の中にあると言ってよい。もっとも、それは、ソラに限ったことではないがのう。全ての生命には、無限の力が内在しておる。どんなアイテムを持っているかだけの話じゃ。翼があれば、鳥になれるじゃろう?ヒレがあれば、魚になれる」

「じゃあ、変身ベルトを着ければ、誰でも空を飛べる?」

「まあ、本来はそういうことになるのじゃが、実際には、飛べる者と飛べない者に別れてしまう。本人の心がけしだいじゃ。昨夜も言ったじゃろう?それが、アホウということなのじゃ」

もう、また、アホウって言う。ひとをつかまえて、アホウ、アホウって、なんて失礼な人かしら?

そう言ってやりたいところだけど、パットマンの姿では、それもかなわない。

「被災地に向かうって言ってたけど、そんなふうに自由に飛べそうか?」

セイジの心配そうな問いに反応して、パットマンが豪語する。

「フハハハハ!まっかせなさ~い!パットマンに不可能なことなど、何もないのだ!」

パットマンは、両手を高々と上げると、決めゼリフの「とおっ」を叫んでスーパーマンのような水平飛行に入ろうとした。が、それは気持ちだけ。実際には、犬かきのような格好で少しずつ空中を移動していくだけだ。これなら歩いた方が早いかもしれない

(あ~ん、前に進まないよお。こんなカッコ悪いヒーロー、見たことないよお)

そんな不満をこぼしながらも、ソラは、必死に変身ヒーローの真似をしようとしている自分に気づいた。姿形が変化したら、心の在り方まで少し変わったみたいだ。

「うむ、その意気じゃ。ソラよ頼んだぞ。心配せんでよい。おまえさんの代わりは、ちゃんと、このわしが務めてやるからのう」

その言葉に後ろを振り返ると、いつの間にか、老師様がソラのスクールバックを持っている。

(えっ?えっ?わたしの代わりを務めるって、老師様、いったい何をするつもり?)

なんだか異様な不安を抱きながら、何度も振り返ってみる。振り返るたびに遠退いていく老師様の服装が、セーラー服になっていたような。

(まさかね?まさか、そんなことあるはず・・・うひぃ、気持ち悪い!)

ソラのスピードは、しだいに上がっていき、高度も平屋建ての屋根くらいから、さらに電信柱の高さまで、さらに高く、やがてビルの屋上を超えるほどまでになっていった。

見送るセイジの心配そうな顔が、目に焼きついている。

不思議なことに、上空でもソラは寒さを感じなかった。パットマンになっている間は、そうした部分も含めて常人とはかけ離れているようで、ソラは、身の内にたぎる大きな力を実感していた。

でも、向かう先がわからない。わからないにもかかわらず、体が勝手に前へ進んでいく。どうやら、ソラにはわからなくても、パットマンには、自分がどこへ行くべきかが把握されているらしい。

飛行速度はどんどん上がっていき、もはやヘリコプターでは追いつけない。いや、プロペラ飛行機よりも速く、ジェット旅客機にも負けないのではないか?こんな超高速の犬かき、見たことない。

やがて晴れ渡った空にうっすらと黒い煙が混じり始めた。わずかだが、焦げた臭いがする。

(あそこが地震の震源地かしら?なんだか、地上全体が、茶色っぽい感じがするけど)

「ソラ、そろそろ目的地じゃ。あっちこっちから煙が立ち上っておるじゃろう?」

突然、老師様の声が頭の中で響いたので、びっくりした。

「えっ?老師様?どうやって話してるの?」

「おまえさんの変身ベルトについとる通信機能を使っておるのじゃ。どうじゃ?空の旅は快適じゃったろう?」

「快適というか・・・結構怖かった。高いんだもん」

「その感覚にも、すぐに慣れるよ。慣れてもらわんと困る。町が茶色に見えるじゃろう。多くの家が倒壊してそう見えるのじゃ。今から高度を下げて、建物の下敷きになった人々の救助に当たるが、何気なく降りるのじゃ。おまえさんの格好を見たら、みんなビビるからの」

それがわかっているなら、こんなコスチュームにしなければいいのにと思うが、今は黙っておこう。

黙ってしまうような光景が、目の前に近づいてきた。同時に人々の叫ぶ声が聞こえてくる。

「だれか、だれか来てくれ!娘が下敷きになってるんだ!」

「お父さん!お父さん、しっかりして!今、助けを呼びますから!」

自分の娘を救おうと必死になっている父親と、逆に倒れた家の壁に挟まれて苦しむ父親を励ます娘。他にも家族の安否を気遣う無数の声が、町全体を覆い尽くしている。

救急車や消防車のサイレンが鳴り響き、どこもかしこも何かが燃える臭いで満たされている。その煙を吸い込んで激しく咳き込む人影も見える。

「お母さん、お手てが痛いよう。痛いよう」

真っ先にソラの気を引いたのは、倒壊寸前の家屋の中で家具と柱の間に挟まれている幼い男の子の声だった。すぐそばにいる母親が、ボロボロと涙を流しながら、「大丈夫だからね!お母さんが、すぐに助け出してあげるからね!」と懸命に声をかけている。

ソラは、そんな地獄のような世界の真っただ中に降り立った。

数名の人たちがギョッとしたようにこちらを見たが、何も言わなかった。言えなかったという方が正しいかもしれない。

でも、それは、ソラも同じで、予想もしていなかった悲惨な光景にただただ圧倒されてしまって、今見ているものが現実とはどうしても思えない。言葉を失うというのは、まさにこのことで、ソラの頭は混乱した。

だが、立ち止まっている場合ではない。小さな子供が泣いている。そのわが子を見守りながら、どうすることもできない母親も泣いている。

「心配しないで!今、助けるから!」

とっさに男の子へ駆け寄り手を出した。もっとも、パットマンの口から実際に出た言葉は、「パットマンのおじさんが来たから、もう安心だよ!」という相変わらずの調子ではあったが。

男の子を苦しめている大きな家具、それは洋服ダンスだったが、ソラは、その下の角に右手を、左手を側面に添えて、グッと歯を食いしばった。

こんな重いもの、わたしの力で持ち上がるわけがない。そう思いながらも、とにかく、腕と足腰に力を入れる。

泣いている子供を助けたい!

となりでパットマンの姿に驚きながらも、一緒になって家具を動かそうとしている母親の気持ちがブワッとソラの心の中になだれ込んできて、地震がもたらしたこの理不尽な仕打ちに怒りすら覚えて目頭が熱くなる。

「この~っ!」

気合を入れたら、入れすぎたことに即座に気づいた。両手を伸ばしても抱えることができない大きなタンスが、まるで風船のようにふわりと空中に浮き上がったのだ。取っ手をつかんでいた母親がいっしょに持ち上がってしまったほどで、あわてて男の子の脇へタンスを下ろす。

泣いていた男の子が目をまるくさせてこっちを見つめていたが、それは母親の方も同じで、それどころか、ソラ自身も呆気に取られてぽかんと口を開けている。

(な、何これ?ど、どういうこと?)

たしかに、ソラは、軽々とタンスを持ち上げ幼い男の子を助けたのだった。母親がわが子を抱きしめて、叫ぶように言った。

「ありがとうございます!ありがとうございます!」

まるで首振り人形のようにペコペコと頭を下げて、礼を言いまくる母親。泣いていた男の子は、今や瞳をキラキラ輝かせて、突如として現れた正義のヒーローに釘づけになっている。

「余震が来るかもしれないから、気をつけるのだよ。さらばだ!」

唖然としているソラの意思とは関係なしに、パットマンは、次なる人命救助に取り掛かる。

「なんだ君は?」

全身黒づくめのアクタースーツおじさんに度肝を抜かれたレスキュー隊員たちが、あまりのことに立ち尽くした。

「このおばあさんを助け出せばよいのだね?」

レスキュー隊員たちは、崩れた自宅の屋根の下敷きになっているおばあさんの救助に当たっていた。その傍で、おばあさんの孫と思われる小学生くらいの女の子が、母親に抱きかかえられながら泣いている。

「だが、慎重にいかないと、かえって危険な目に・・・」

レスキュー隊員たちの心配をよそに「フハハハハ!まっかせなさい!」と、高らかに笑うパットマン。その中身であるソラは、何をどう任せろって言うのよ?とぼやきながらも、パットマンと一体化して屋根のへりに手を掛ける。

まさに、ひょいっと持ち上げたという表現がいちばん合っているだろう。パットマンは、人力ではどうにもならない崩れた瓦屋根を器用に持ち上げ、挟まれていたおばあさんの体を解放した。

腰を抜かしそうにながらも、即座にレスキュー隊員たちがおばあさんの体を抱え上げ、家族のもとへ運ぶ。

「わあっ、おばあちやん、よかったあ!」

泣いていた女の子が、顔をくしゃくしゃにしながら、担架に寝かされているおばあちゃんにすがりつく。その姿を見たら、なんだか、胸に熱いものがこみあげてきた。

「ありがとうございます!ありがとうございます!」

ここでも、雨あられと感謝の言葉を浴びせかけられる。

(信じられない。これが、老師様の言ってたパットマンの力なの?)

ソラは、あまりのことに自分が人命救助をしたという実感を持てずにいたが、それでも、悪い気はしなかった。はっきり言って、うれしい!パットマンの力があれば、危険にさらされた人々をいくらでも救い出せる!

「すごいぞ!こいつは、すごすぎるぞ!」

何人もの人たちを助けているうちに、レスキュー隊員たちが歓呼の声を上げ始めた。

人力では膨大な時間がかかってしまう救助活動。かと言って、むやみにパワーショベルのような重機の力を借りれば、救助を求めている人々の体を圧迫し、かえって危険な目に合わせかねない。

その点、人の形をしたパットマンは、指先の微妙な力加減で巨大なコンクリートのがれきを持ち上げることもできれば、生卵のような繊細なものをつぶす心配もなく握ることもできる。まるで未来のロボット、いや、それ以上だ!

町の被害は、甚大だった。にもかかわらず、パットマンの迅速な救助活動と、その後の手際のよい救命措置が相まって、人的な被害は最小限に押しとどめられていった。

「いったい、何者なんだ?あの黒づくめの男は?」

「パットマンとか言ってたな。あんなスーパーヒーローが現実にいるのか?」

地震のような異常事態の時、人間の思考も常時とは大きくかけ離れ、ありえない事態も受け入れられるようになる。そういう、防御反応が働くものらしい。

パットマンの突然の出現に、町は大騒ぎとなったが、人々のパットマンを見る目は、異質なものに向けられるそれとは違って、とても好意的なものだった。

はっきり言って、拍手喝采なのだ!

「ありがとう、パットマン!君のおかげで、本当に多くの命が救われたよ!」

日暮れ近くなって、すべての人命救助を終えたパットマンの手を握って、レスキュー隊の隊長らしき人が心底感動したように言った。

パットマンの方は相変わらずで、「いやいや、君たちの協力があってこその人命救助だよ。これからも、お互い力を合わせて世界の平和を守ろうではないか!」なんて、アニメのようなセリフを言っている。

それでも、パットマンの中身であるソラも、まんざらではなかった。自分の力で、本当にたくさんの人々の命を救えたのは事実なのだ。

「さらばだ!」

そう言って空高くジャンプしたパットマンだったが、帰り道は、やっぱり犬かき。

「ありがとう、パットマ~ン!」

とびっきりの笑顔で手を振る子供たちの目に、この情けない飛び方は、どう映っているのだろう?