第八章

それからの数日間は、特に何事もなく過ぎていった。何事もなくというのは、魔女メデューサの動きが何もなかったということで、町は、被災後の処理に忙殺されていた。

ソラの両親も、休日返上で職場に出かけていき、毎日、へとへとになって帰ってくる。少しでも二人に楽をしてもらいたいと思って、炊事や洗濯など、自分にできることは何でもしようと、ソラも、慌ただしい日々を送っていた。

相変わらず、ネットもテレビも、謎の変身ヒーローの話題でもちきりだが、それまでのパットマンからセイジのお面ライダーにチェンジしたことが、特に人々の興味を誘っている。

「なんか、今度の変身ヒーローって、イケメンだよね?」

お面ライダーの正体がセイジとも知らず、クラスメイト達からも、そんな声が聞こえてくる。

そのセイジは、被災地の後片づけの手伝いだけでなく、犯罪者の逮捕や困っている人たちの手助けなど、ソラがパットマンだった時と同じような活躍をしている。

もちろん、その間は、老師様がセイジの代わりを演じているわけで、つまり、ソラは、毎日、学校で老師様と顔を突き合わせているわけである。

しかし、老師様の変身っぷりったら、本当にすごい。どこからどう見ても、セイジそのものである。

ただ、本物のセイジよりも微妙に愛想がよく、今までいがみ合っていたクラスメイトたちとも、それなりにうまくやっているみたいだ。

もっとも、そんなセイジの姿勢は、ソラと一緒に老師様に出会った日から続いていて、あれからというもの、本物の方も、一度ももめごとを起こしていない。

セイジが変身ヒーローを卒業した後のことを考えれば、それは、いいことに違いないが、ひとつだけ疑問がある。

いったい、セイジは、いつまで変身ヒーローをやらなければならないのだろうか?役を彼に押しつけてしまったソラとしては、それだけが心配の種である。

 

「それでね、最近のお兄ちゃん、すごく疲れてるみたいなの。どうしたのって、わたしが聞いても、大丈夫だよって言うだけで。ソラちゃん、何か知ってる?」

車いすに座ったまま、洗い終えたばかりのお皿を布巾で拭きながら、ユカが首をかしげる。自分に向けられたつぶらな瞳を見て、ソラの声がわずかに上ずった。

「えっ?別に何もないよ。お兄ちゃん、いつも学校で元気にしてるし」

今、ソラは、大学病院の中庭でユカや他の人たちとボランティア活動に従事している。被災によって食うや食わずになってしまった人たちのために、支援団体を中心にした炊き出しが行われているのだ。

ソラとユカは、病院から提供された敷地内でのこうした活動に自ら進んで参加したわけだが、ソラとしては、ここにいれば、何らかの形で母さんの手伝いができるかもしれない。もしくは、お父さんのお見舞いに来ている由衣とも会えるかもしれないとの思惑もあった。

とにかく、だれかのために何かをやっていないと落ち着かない。罪の意識にさいなまれている今のソラには、こうした慈善活動が、かえって自分の心の安定の手助けとなっていたのだ。

むしろ、本当にすごいのは、ユカの方だ。驚いたことに、ユカは、かつてのいじめっ子だった男の子たちを、この日の活動に連れてきていた。今では、すっかりクラスに溶け込んでいるようで、そのきっかけを作ったソラとしては、うれしい限りである。

けれども、そんなユカの不安げな言葉を聞いて、ソラは、少なからず動揺した。

(やっぱり、セイジ、大変なんだ・・・)

セイジのお面ライダーは、パットマンよりパワーが劣ると老師様が言っていたから、疲労が蓄積されているのかもしれない。

「こんなこと初めてだし、お兄ちゃん、わたしの前では、いつも強がっているから、ちょっと心配してるの」

「ユカちゃんは、偉いね。わたし、時々、ユカちゃんの方が年上に思える時あるよ」

「え~っ、なんでえ?」

ユカは、子供らしい黄色い笑い声をあげたが、ソラは、かなり本気だった。

この子は、どうして、こんなに落ち着いているんだろう。火災で両親を失ってしまったことが、彼女を強くしたのだろうか?

自分が同じ立場だったら、絶え間なく押し寄せる悲しみと苦しみとで、毎日を泣いて過ごしているに違いないと、ソラは思ってしまう。

「お~い、ユカちゃんもこっちに来て、みんなでご飯食べようよ」

さっきから、被災者に食事を配る手伝いをしていたユカのクラスメイトの少女が、手招きをして叫んでいる。

ユカと一緒に今日のボランティアにやってきた子供たちの中には、かつてのいじめっ子たちだけでなく、同じクラスの少女数名も含まれていた。

実を言うと、今やユカは、クラスの中心的な存在にすらなっている。ソラが感じているように、その大人びたところが、同い年の子供たちの信頼を集めているのだろう。

「ソラちゃんも、一緒にお昼食べようよ」

ユカは、そう言ってくれたが、ソラは、「わたし、母さんの様子見てくるよ。もうじき、休憩時間のはずだから、ここに来ることになってるんだ」と言って、病棟内へと向かった。

念のため由衣のお父さんの病室をのぞいてみたが、この時は、由衣の姿は見えなかった。カーテン越しでわからなかったが、由衣のお父さんは、眠ってしまっているらしい。

できたら、由衣も誘いたかったなとがっかりしていると、後ろから母さんの声が聞こえた。

「あれ?もしかして、迎えに来てくれた?」

「あ、うん。もう、休憩時間?お仕事、大丈夫?」

母さんは、自宅からいつも持っていくショルダーバックを白衣の上に下げている。中には、ソラの作った二人分のお弁当が入っている。

「由衣のお父さんの様子って、どうなの?」

「うん、驚くほど早く回復してるって。母さんが担当しているわけじゃないから、聞いた話だけど。お仕事柄、もともと足腰の丈夫な方だったから、回復も早いのね」

「また、歩けるようになる?」

「きっと、大丈夫よ。まあ、以前のようにってわけには、なかなかいかないかもしれないけど」

「そうか・・・」

うれしさ半分、がっかり半分の母さんの答えだった。

看護師という職業柄、母さんは、本人の前でならともかく、それ以外の人の前では、決して症状について安易なことは言わない。気休めの励ましは、かえって、相手を傷つけてしまうことを知っているからだ。

ただし、母さんは、由衣のお父さんのケガの原因を自分の娘が作ったとは、夢にも思っていない。だから、どうしても現実を直視した会話になる。

物思いに沈みながら、ソラが母さんと中庭まで戻ってくると、クラスメイト達と一緒のテーブルについてお昼ご飯を食べているユカの姿が目に入った。

ボランティアに参加した人は、被災者に提供しているのと同じ食事ができる決まりになっている。豚汁にご飯という簡素な食事だったが、みんなと笑っているユカは、明るい笑みを浮かべて、とても幸せそうに見える。

席がいっぱいだったので、ソラと母さんは、中庭の隅の木陰に腰を下ろして、そこでお弁当を広げた。こちらも、タコさんウインナーと卵焼きにブロッコリーを添えただけの簡単なお弁当だ。

「ごめんね、こんなものしか用意できなくて」

ソラがあやまると、母さんは、眉をハの字にして申し訳なさそうに手を振る。

「ううん、これで上等よ。こっちこそ、ごめんね。お弁当までソラに作らせちゃって」                                                                                                  

明るい日差しの下で母さんとお弁当を広げるなんて、何年ぶりのことだろう?こんなつらい現実の中で、ピクニックにでも来たような喜びを覚えるなんて、ちょっと不謹慎な感じもしたが、ソラは、素直にうれしかった。

食事中の皆が、思い思いの場所で会話を楽しんでいる。当然のことながら、そのほとんどが被災者であり、明日からの生活に不安を抱えた人たちばかりだが、それでも、笑顔の人たちが大多数だ。

いや、本当は、笑ってなどいないのかもしれない。辛ければ辛いほど、無理にでも笑っていなければやっていられないというのが本音だろう。

「こういうことって、被害の大きさで語るものではないと思うけど、それでも、他の地域のように、町全体がダメージを受けたわけじゃなかったから、まだよかったと思うのよ」

母さんが、お弁当を食べながら言った。

「もちろん、被災した人たちにとっては、そんなこと言ってられないでしょうけど、母さん、やっぱり、パットマンの活躍は大きかったと思うな」

思いがけず、母さんの口からパットマンの話題が出て、ソラは、ハッと胸を突かれた。

「でも、パットマンのせいで被災した人もいるんだよ?」

「そうね、中には、そういう人たちもいるかもね。でも、パットマンが来てくれなかったら、もっとたくさんの人たちが被害にあってたと思うの。あれだけの土石流に襲われたのに、死者ゼロって、すごいことじゃないかしら?」

「・・・・・」

ソラは、どう答えるべきか、言葉が思い浮かばなかった。

どんなに安全運転を心がけてきた優良ドライバーで、長年、無事故を貫いてきたとしても、たった一度事故を起こせば、それまでの功績は無になってしまう。自分のしでかしたことは、それと似たようなもので、どれほど言い訳してみても、これでよかったという気持ちにはなれない。

すると、そんなソラの晴れない心を見透かしたように、母さんが続けた。

「ソラ、最近、何かあったでしょ?」

「え・・・」

「台風の後から、いつもの元気がないもの。まあ、こんな災害に見舞われたら、元気がなくなるのも無理ないけどね。それとも、学校で嫌なことでもあった?」

ソラは、まじまじと母さんの顔を見つめた。何気ないふりを装っているけれど、母さんは、娘の変化に気づいていたのだ。

「・・・別に何もないけど」

「そう?それならいいの。でも、何かあるのなら、言ってね。ひとりで悩むのは無しね」

「うん・・・」

そううなずいてみたものの、母さんの言葉は、胸に響いた。急に自分が小さな子供時代に戻ったような気がした。

「ねえ、母さん。人のためになるのって、難しいね」

「やぶからぼうに、なあに?」

「母さんは、看護師の仕事をしていて、患者さんのためにやったことが裏目に出て、相手を傷つけちゃったってことない?」

ソラが尋ねると、母さんは、思い当たる節がいくらでもあると言わんばかりに体を乗り出した。

「もう、それを挙げたら、きりがないわね。でも、失敗を怖がっていたら、看護師なんてできないだろうし。こちらが患者さんのために正しいと思ったことを、地道に続けていくだけよ」

「そうか・・・」

「相手が、自分と同じ立場でものを考えているわけじゃないからね。意見の相違ってのは、どの世界でもつき物よ。人間なんだから、こればっかりは仕方がない。って、ソラ、そんなことを悩んでるの?」

母さんは、なんだか意外そうな顔をして、それから、フッと優しい笑みを浮かべた。

ああ、いけない、いけない。母さんのこんな顔見たら、わたし、泣きそうになるじゃない。

「母さんは、強いね」

涙をごまかそうと下を向いた。

「ううん、その反対。弱いから、だれかのために働きたいんだと思う」

「どういうこと?」

「きっと、だれかのためになることで、自分を保っているのね。患者さんから喜んでもらえたら、ああ、こんなダメな自分でもいいんだって思えるじゃない?看護師って、患者さんの命を救うためのお手伝いをしているわけだけど、本当は、救われているのはこっちかもしれないんだよね」

母さんの言っている意味が、ソラには、痛いほどわかった。なぜなら、今の自分と同じだから。少しでも罪を償いたくて、こうしてボランティア活動に参加している自分がいる。

「母さん・・・」

「あらやだ。ソラ、大丈夫?どうしたの?」

結局、だめだった。何とか涙をこらえようとしたが、ぽろぽろと透明な滴が頬を流れ落ちてしまった。ぽろぽろ、ぽろぽろと。もう、どうにも止まらない。

「大丈夫よ。わたしね、全然、大丈夫だから・・・」

ちっとも、大丈夫そうに見えない娘の肩に手を回して、母さんが頭をなでてくれる。そうしたら、ますます涙があふれてきて、まるで土石流のようになってしまった。

ソラは、しだいに声をあげて泣いた。そんなソラの様子を、ユカが遠くから見つめていることも気づかずに。

「父さんもね、心配してるのよ。口に出して言わないだけ。たまには、父さんにも笑顔を見せてあげてね。ああ見えて、寂しがり屋だから」

母さんが笑ったので、ソラも笑った。泣きながら笑ったら、しゃっくりが出てきて困った。

そうだ、うちにも父さんはいるんだった。由衣のお父さんのことばかり考えていないで、少しはうちの父さんのことも気にとめてあげなきゃね。

 

×     ×     ×

 

来た時と同じく、帰り道は、ユカと二人きり。

ユカの乗る車いすをゆっくり押しながら、ソラは、少しだけ晴れやかな気持ちになっていた。泣いたのが、心の薬になったのかもしれない。

「ソラちゃん、いっぱい豚汁配れてよかったね」

ユカが、小麦色に日焼けした顔でソラを振り返る。

「ほんとだね。みんな、喜んでたね。豚汁おいしかった?」

「うん、おいしかった。でも、わたし、ソラちゃんのお弁当も食べてみたかったな」

「今度、作ってきてあげるよ。でも、タコさんウインナーくらいしか入ってない簡単なのだよ」

「それでいいの。わたし、ソラちゃんの作ったものが食べてみたいの」

そんなふうに言われると、なんとも照れくさい。今日は豚汁が出ることがわかっていたから用意しなかったが、次回は、もう少し気合を入れたお弁当をユカに御馳走してあげようと、ソラは思った。

「それにしても、よかった。みんな、ユカちゃんに良くしてくれてるんだね」

「うん、全部、パットマンのおかげだよ。あの時、パットマンが守ってくれなかったら、こんなふうにはなってなかったよ」

ユカの言うあの時とは、男の子たちに公園でいじめられているところを、パットマンが助けた時のことだ。ユカは、続けて言った。

「パットマンは、みんなの憧れなんだよ。でも、最近、パットマンが現れないから、みんな、心配してるんだ。悪いやつにやっつけられちゃったんじゃないかって」

セイジのお面ライダーが登場して以来、巷では、パットマンの話題が少なくなってきている。パットマンに嫌気がさしているソラにとって、それは望ましいことに違いなかったが、一方で何となくさみしさを覚えている自分がいることも事実だ。

ユカは、妙にまじめな顔で、前に視線を戻した。それから、少し緊張したような声で言った。

「ねえ、ソラちゃん」

「うん?」

「パットマンって、ソラちゃんなんでしょ?」

再び振り返ったユカの瞳を見て、ソラは、息が止まるかと思った。

「そんなはず、あるわけないじゃない」

そう言って、ごまかすこともできたかもしれない。でも、できなかった。ユカの目には、そんなまやかしの通用しない強い光が宿っていた。

もう、だめだ。この子にウソをつくことはできない。

「わたしね、初めて会った時から、ソラちゃんがパットマンなんだってわかってたの。それに、今のお面ライダーがお兄ちゃんだってことも。お兄ちゃん、変身ベルトを机の上に置いたまま寝ちゃうんだもん。すぐにバレちゃうよね」

ユカは、ちょっと舌を出して笑って見せたが、心から笑っているという感じはしなかった。

「ユカちゃん、お兄ちゃんとそのことについて話したの?」

「ううん、知られたくないみたいだから、気づかないふりをしてる。でも、心配してるの。すごく疲れてるみたいなんだもの」

本当にこの小さな女の子の目は、何事も見逃さないのだと、ソラは思った。恐らく、セイジも、自分がお面ライダーであることを妹に見破られているとは、気づいていないだろう。

けれども、なぜ、ユカの感性がこんなにも鋭いのか、ソラには、なんとなくわかる気がした。パットマンに変身しなくなった今の方が、パットマンの力のすごさと、その反対の側面がよくわかるのと、どこか似ている。

「ソラちゃん、わたし、パットマンにひとつだけお願いしたいことがあるんだ」

「うん、なあに?」

「わたしね、お空を飛んでみたいの。お兄ちゃんは、夜空を眺めるのが好きだけど、わたしは、空からいろんなものを見てみたい。町とか、川とか、海とか」

それは、自由に歩けなくなったことで生じた、ユカの素直な気持ちなのかもしれなかった。

ソラは、ふと思った。

セイジの話では、ユカの足が動かないのは精神的な痛みによるもので、外科的には、何ら損傷はないという。ということは、ユカの望みをかなえてあげることで、ひょっとしたら、彼女は、もとのように歩くことができるようになるのではないか?

ソラは、少しの間をおいてから、ゆっくりと答えた。

「わかったわ。今夜、部屋の窓を開けて置いてくれる?そしたら、パットマンが迎えに行くから」

これで、いいのかと逡巡しないわけではなかった。もう、二度とパットマンにはならないと心に誓ったはずだ。パットマンの力は便利だが、便利すぎる。便利すぎて、自分は、羽目を外してしまった。

「ホントに?ありがとう、ソラちゃん!」

ユカは、キラキラと光る眼で、じっとソラの顔を見上げた。もう、ソラがパットマンであることを、これっぽっちも疑ってはいない。

ソラは、心の中でため息をついた。こんなにも、ユカに喜んでもらえるのなら、しかたがない。これが、本当の最後と決めて、今夜一度だけなら、ユカのためにパットマンに変身するのも悪くないだろう。

多少は、自分に言い聞かせている面もあった。それでも、ユカとなら、わたしも、きらびやかな街の夜景を見てみたい。

「風邪をひかないように、暖かい格好でいてね。夜八時ころになったら、迎えに行くから」

台風の上陸以降、父さんと母さんの帰宅時間は、どちらも夜の九時過ぎだ。それまでに帰宅していれば、問題はないだろう。

 

×     ×     ×

 

自宅に戻り、夕食の支度を終えたソラは、自分の部屋でパットマンに変身した。立鏡に映る久しぶりの姿に、やっぱり、インパクトがあるなと改めて思う。

けれども、これで見納めとなるパットマンの黒いアクタースーツ姿を見ても、特別な感慨はわいてこなかった。

それよりも、胸を痛めていることがある。

ユカと行動を共にするようになってから、ソラは、幾度となくセイジとユカを引き取ったおじさんとおばさんに会った。特にユカの送り迎えの際には、必ずおばさんが玄関口へ出てきた。

二人は、セイジが話していた通りの人物で、ソラは、決して二人から歓迎されていなかった。今日も、ユカを送り届けたソラに、「この子は、他人の心配をしている場合じゃないのに」と、幼い姪を横目に見て嫌みをこぼした。ユカは、目を伏せたまま、何も言わなかった。 

こんなことが、毎日、セイジとユカの身に降りかかっているのかと思うと、どうにもやりきれない気分になってくる。

いかなる理由があるにせよ、どうして、身内の子供を愛せないのだろう?大人同士の間で過去に何らかの問題があったとしても、子供には、関係のないことだ。

それに、セイジが火事を出したのだって、わざとやったわけではない。ああ、そうだ。わたしだって、わざと由衣のお父さんにけがをさせたわけじゃないけど。

ソラは、セイジと自分との間に似たものがあるのを感じた。どちらも、悪気のないミスから人を傷つけてしまい、その罪の意識にさいなまれている。しかも、自分の場合は、パットマンの力を過信したことから起きた、身から出た錆というやつだ。

「せめて、今夜だけは、正しいパットマンを演じ続けよう。ユカちゃんの夢をかなえるために、優しい正義のヒーローになるんだ」

ソラは、鏡の前で声に出して言ってみた。そうすることで、迷いのある気持ちに喝を入れた。

夕方から現れた薄い雲が気になっていたが、幸いにも出発するころには、美しい満月がこうこうと輝く月夜になっていた。

庭の隅から人目につかないようこっそりと飛び上がったパットマンは、緩い風にパタパタとマントをなびかせて、ユカのもとへと向かった。

穏やかな、とても静かな夜だった。

約束した夜八時ちょうどにセイジの自宅の上空にたどり着いたソラは、一階の部屋の窓を開けてこちらを見上げているユカの姿を認めた。音もなく窓際まで高度を下ろし、大きく目を見開いているユカに小声で声を掛ける。

「ごめんね、待った?」

「ううん、時間通りだもの。でも、ウソみたい。本当にパットマンが空から迎えに来てくれるなんて」

「フフフ、変身ベルトを着ければ、ユカちゃんだって飛べるようになるよ。ちょっと、練習が必要だけど」

そう言いながら、ソラは、老師様と出会ったころのセイジの言葉を思い出していた。

セイジは、変身ベルトを妹のために使いたいのだと言っていた。確かに変身ベルトさえあれば、ユカは、車いすから離れられる。ベルトを装着している間に限られるかもしれないが、ユカは、自らの意志で自由に世界へと羽ばたいていけるはずだ。

「準備はいい?車いすから立てる?」

「うん、やってみる」

ユカは、ひとりで立ち上がろうと、車いすの手すりに両手をかけた。すぐに、ソラが、その折れてしまいそうな体を支え後ろから抱きかかえる。

「このままの姿勢で飛ぶけど、こわくない?」

「たぶん、大丈夫だと思う」

「よおし、じゃあ、行くよ!」

ソラは、音もなくユカの部屋の窓から飛び立った。ユカが、「ひゃあ!」という小さな悲鳴をあげたが、それきりだった。

小刻みな鼓動が、抱える腕を通してソラに伝わってくる。命の存在を実感した。当たり前のことだが、ユカは生きているのだと思った。

「慣れるまで低くゆっくり飛ぶね。どこか行きたいところはない?」

「町全体が見れればいい。お面ライダーになったお兄ちゃんが見ている風景を、わたしも見てみたい」

そうか、そういうことなのか。ユカが急に空を飛びたいなどと言い出したのには、そんな理由があったわけか。

「お兄ちゃんは、どうしてる?今夜のことは話した?」

「ううん、話してない。お兄ちゃんは、寝ちゃってると思う。帰ってくると、いつもそうだから」

幸い、セイジがお面ライダーであることは、おじさんやおばさんには気づかれていないようだ。疲れた体で、ひっそりと寄り添うように生きている、この兄妹のことを考えると、苦しかったソラの胸は、ますますしめつけられた。

「少しずつ高いところへ行くからね」

辛い思いを振り払うように、高度を上げていく。家々の明かりが次第に小さな点となり、ぽっかりと浮かんだのどかな雲が近づいてくる。

本当に静かだ。ユカの部屋から飛び立つ時も、不自然なくらいに静かだと思ったが、こうして美しい夜景を見下ろし、高速道路を走る車の音に耳を傾けてみても、やはり、騒音は伝わってこない。

この世界にユカと二人きりになったような錯覚を、ソラは覚えた。きっと、ユカもそう思っているに違いない。

「きれい。本当にきれいだね、ソラちゃん」

眼下に広がる街の灯火は、まるで天の川のよう。

かつて、家族でドライブに出かけた時、小高い山の山頂付近から夜の街を眺めたことはあったが、上空から見下ろす夜景には、それとは少し違った趣があった。

あの小さな光の粒のひとつひとつのもとに、たくさんの人たちがいるのだと思うと、なんだか不思議な気分になってくる。世界には、こんなにもたくさんの命が瞬いているのだという事実が、ソラを打ちのめし、同時に震えるような心のざわめきへとつながっていった。

不思議なことに、ユカは、少しも寒がらなかった。考えてみれば、人命救助のために、だれかを抱えて飛んだのは、数限りないほどだったが、ひとりとして寒さを訴えた者はいなかった。

もしかしたら、パットマンと一緒に飛んでいる時は、同じような快適な環境を享受できるのかもしれない。

「お兄ちゃんは、いつも、こんな風景を見ているんだね」

ユカが、ポツリとこぼした。

「ユカちゃんも、お兄ちゃんみたいになりたい?変身ベルトを着ければ、なれるよ。そしたら・・・」

以前のように、歩けるようになるよ。そう言おうとして、ソラは、口をつぐんだ。

はたして、それは、正しいことなのだろうか?もちろん、機械や道具の力を使って、足の不自由な人が歩けるようになることには、なんら問題はない。

でも、この場合は違う。何が違うのか、うまく説明できないが、人間が本当の意味で障害を克服するというのは、そんな簡単なことではないような気がした。

「ソラちゃん、気づいてる?」

「うん?何が?」

「今夜のソラちゃん、天使みたいだよ」

何の話をしているのかと思った。

今、ソラは、パットマンの姿になっているわけで、中学生の女の子からかけ離れたムキムキのおじさんである。こんな姿でなければ、ユカも、もっと夜景を楽しめるだろうにと思っていたくらいだ。それなのに、そんなソラを見て、ユカは、天使みたいだと言う。

「もう、ユカちゃんったら、からかわないでよ」

笑って、そう返そうとした時だった。ソラは、高層ビルの窓ガラスに映りこむ自分の姿を見て、ハッと息をのんだ。

(何これ・・・?)

鏡の中の自分と同じように、こちらを見ているパットマン。いや、パットマンではなかった。

ひとつの高層ビルが遠ざかり、次の高層ビルに差し掛かる。明かりの消えた闇の向こうに反射しているのは、ユカの言う通り、女の子を抱きかかえたひとりの天使だった。

いや、天使のような姿のソラである。

「これって、わたし・・・?」

ソラは、見たこともないような白い衣装をまとっている。

だが、いちばん目をひくのは、背中から生えた大きな翼だ。着ているものと同じ白い翼は、まさにイカロスの翼そっくりで、その美しさは、この世のものとは思えないほどの幻想的な光を放っていた。

「ね?天使みたいでしょ?」

ユカが、得意げに念押しする。

ソラは、同じビルのまわりを旋回しながらユカを見て、自分を見て、それから、再びユカと視線を合わせた。

「なんで、こんなこと・・・」

「さっきから、その姿だったよ」

「そうなの?ちっとも気づかなかった」

そう言われてみれば、途中で体が軽くなったような気がする。ユカを抱いているにもかかわらず、水面を泳いでいるような浮遊感を覚えたのだ。

しかし、今のソラは、中学生のソラとも違う。ソラは、鏡に映る自分の容姿を美人だとか、かわいいだとかと思ったことは一度もなかったが、今だけは、自分のことを美しいと思った。そして、そんなことを考えている自分が恥ずかしくて、思わず赤面した。

「パットマンは、どこへ行っちゃったの?わたし、変身の仕方、まちがったのかしら?」

そんなはずはない。結局のところ、変身ベルトは、ボタンひとつで作動するのであって、変身ポーズによって形態が変わるわけではない。

ただ、老師様は言っていた。何に変身するかは、自分にもわからないのだと。

今夜のソラの姿を見たら、老師様は、なんて言うだろう?セイジなら、どんなコメントをするだろうか?

ユカは、天使となったソラに身を任せながら、ほのかな街の明かりに目を輝かせている。同じように、ソラの瞳にも点々とした優しい光が宿っていた。

わたしは、何なのだろう?変身ベルトは、わたしに何を伝えようとしているのだろう?

空をかける二人の少女の姿は、青い満月にも負けない光彩を放って、風のように街の中心部から離れていった。天使の姿をしているから、まるで、このまま天へ召されてしまいそうにも思える。

だが、ソラは、はっきりと思った。ともすると、消え入りそうなはかなさを感じさせるユカという少女を、自分は、地上へ戻さなければならない。そして、自分も同じ場所へ降り立つのだと。

「ソラちゃん、もうひとつだけ聞いていい?」

「いいよ」

「ソラちゃんってね・・・」

ユカは、そこまで言ってから、急に泣いているような、笑っているような顔をした。どうしたのかと思っていると、最後は、母親が娘を見るような目で一言だけ告げた。

「ソラちゃんって、お兄ちゃんのこと好きなんでしょ?」

「・・・・・」

「わたし、うれしいの。ソラちゃんが、わたしのお姉さんだったら、すごくうれしい」

もう、この女の子は、本当に人をびっくりさせてくれる。びっくりしすぎて、返す言葉がない。

でも、彼女の言葉を、ソラは否定できなかった。そして、不意に思った。

セイジに会いたい。老師様がなりすましたセイジには、毎日のように会っているが、そうではない本物のセイジに。

そんなソラの思いに応えるかのように、ユカは告げた。

「ありがとう、ソラちゃん。家に帰ろ」

「本当に?まだ、飛べるよ?」

「お兄ちゃんの見ている風景がわかったから、もういい。大丈夫」

できることなら、ソラは、このまま、ユカを自分の家に連れていきたかった。あんな心の通っていない冷たい家に、この子を置いていきたくない。でも、しかたがない。

「わかったわ。じゃあ、帰ろうね」

ソラは、できるだけゆっくりと飛んで帰宅の途についた。

このまま、元の場所へユカを戻せば、今夜の夜間飛行のことは、だれにも知られずに済むだろう。少なくとも、あの嫌なおじさんとおばさんにだけは、知られたくない。

けれども、ソラとユカが帰ってきた時、飛び立ったのと同じ窓の向こうに、こちらを見上げているひとりの人影が見えたので、ドキッとなった。が、それも、一瞬のこと、二人の帰りを迎えてくれたのは、寝ていたはずのセイジだった。

「あっ、セイジ!」

セイジは、見たこともないソラの姿に、かなり驚いている様子だったが、そよ風のように部屋へ飛び込んできた二人の天使を広げた腕でしっかりと抱き止めた。

たぶん、尋ねたいことがたくさんあったはずだ。それでも、セイジは、ただ一言だけ小さく言った。

「お帰り」

どういうわけか、セイジのその言葉を聞いた途端、ソラの目から涙があふれ出た。

ソラは、セイジに抱き止められたまま、動かない。ユカも動かない。そして、セイジも、息をひそめて、ただじっとしていた。

今日は、泣いてばかりだ。こんなことになったのも、全部、老師様のせいだ。

ソラは、心の中で老師様を罵った。これを聞いたら、きっと、老師様は怒るだろう。何でもかんでも、わしのせいにするなってね。

出発した時と同じく、自分たち以外の音が、まったくなかった。

ソラは、気づいた。今のわたしたちは、外界から切り離された異世界にいるのだと。だから、こんなにも静かなのだ。

三人が三人とも、それぞれの鼓動だけを耳の奥に聞いている。いつの間にか、ソラの背中の翼は消えていた。