大小さまざまなパイプがはりめぐらされた、暗い建屋内の通路に、健二たちの足音が響きわたっていた。
「おじいちゃん、しっかり」
若菜は、作蔵の背中をさすりながら、今も一生懸命に声をかけ続けている。
「すまんなあ。若菜ちゃんたちにまで、迷惑をかけちまって・・・」
作蔵が、息も絶え絶えに言うと、若菜は、唇をかみしめながら首を横にふった。
「わしらは、いつの時代だって負けない気持ちでやってきた・・・。なあ、健二、そうだろ?・・・負けたらみじめだぞ。戦争で負けて、今度は、経済で負ける。強いやつらばかりがのさばるようになったら、わしらは、もう死ぬしかないんだ・・・」
背中から語り続ける作蔵の言葉を、健二は、もうろうとした意識の奥で聞いた。
「じいちゃん、しゃべるな・・・。今は・・・静かにしてなきゃだめだ!」
健二は、ようやく、そう答えた。作蔵の言う意味の重さが、実際の作蔵の体重とあいまって、健二を苦しめた。
作蔵は、心の底から大河内町を愛しているのだ。けれども、今、その愛すべき大切なものが、失われようとしている。
「健二、無理よ。また、追手がやってきた」
若菜が、うしろを見ながら言った。
「もう少しよ。もう少しで、外に出られる」
美雪が答えたが、やはり、このままでは間にあわない。
「くそっ!ここまでか・・・」
「健二、あきらめちゃダメ!わたしがおとりになる」
「な、なんだと?」
若菜の言葉に、健二は、ぎょっとなって立ち止まった。
「バカなこと言うな!おまえひとりで何ができる?」
「何もできないよ!できないから、おとりになるって言ってんでしょ!」
「ふざけるな!おまえだけ置いて、逃げられるか!」
だが、若菜は、健二の忠告を聞こうとはしなかった。
「上条さん、あとお願い!」
そう言い残して、あっという間に、身をひるがえしてしまった。
「あっ、待て!」
「青嶋さん!」
健二と美雪の呼びかけを無視して、若菜は、追手の前に素早くおどり出た。
「いたぞ!」
機動隊の乱暴な足音が、早くなる。
「健二、逃げて!」
悲鳴にも近い若菜の声が、せまい通路にこだました。
健二は、動けなかった。足が、凍りついてしまったみたいに、一歩も前に進めない。
ところが、その瞬間、美雪の手が、作蔵を負ぶった健二の腕を強く引っぱった。
「早く!」
健二の体からは、思い出したように、冷や汗がふき出した。
「若菜が!」
美雪は、健二の言葉が聞こえなかったかのように、強引に走り出した。
「てめえ、若菜を見捨てるのか!」
健二が怒鳴っても、美雪は、前を向いたまま何も答えない。背後では、若菜を追いかける機動隊の声が行き交っている。
「逃がすな!」
「まわりこんで、取り押さえるんだ!」
ガシャーンッという、派手な金属音が鳴った。若菜が、何かを投げて抵抗しているのにちがいなかった。
(くそうっ!若菜がつかまっちまう!)
健二は、引き返そうと思った。
だが、作蔵をどうすればいいのか?今の作蔵の危機を救えるのは、自分以外にはいないのだ。
「チクショウッ・・・チクショウッ・・・」
その時、若菜の押し殺したような、悲鳴が聞こえた。それから、再び大きな物音がしたかと思うと、急に静まり返った。
「健二ィッ!」
助けを求める若菜の声を、健二は、耳をそばだてて追い求めたが、そんなものは、一度も聞こえてこなかった。
若菜のことだ。一度、自分がおとりになると決めたからには、死んでも助けを求めることはないだろう。
健二の目から、涙が出てきた。くやしくてくやしくて、若菜を助けられない自分の非力を、うらめしく思った。
美雪の手は、そんな健二の腕を容赦なく引き寄せる。
「ここから出るの!」
暗い通路から、とつぜん建屋の外に出た健二は、くもり空であるにもかかわらず、表の明るさに思わず顔をしかめた。
目の前に、見上げるような高い塀と、内側から留め金をかけられた非常口がある。鍵のかけられていないその留め金をはずし、塀の外側へ出ると、そこは、正門でも裏門でも西門でもない、住宅街の一画だった。
健二は、なぜ、美雪がこんな場所を知っているのだろうと思った。生まれてからずっと大河内町に住み着いてきた自分でさえ、知らなかったというのに。
「ここからなら、警察に見つからずに、西団地まで行けるわ。ちょっと、遠まわりになるけど」
美雪は、そう言って、自分が次の角まで先に行き、安全であることを見はからってから健二に手招きした。
「国道に出ると、人目につくから、民家の裏を通るわね」
「美雪、いけねえ。足が限界だ」
「西団地まで五百メートルもないわ。少しだけ休んで、すぐに行きましょう」
健二は、いったん、作蔵の体を地面に下ろした。作蔵は、すでに意識を失いかけている。
「だいじょうぶ?がんばって、あなただけが頼りなのよ」
美雪は、ゼイゼイと息を切らせている、健二の背中をさすりながら言った。健二も、つばを飲みこんでうなずいた。
美雪の言うとおりだ。なんとしても、西団地に行かなければならない。
ここから、警察の目を盗んで、けやき通り商店街に戻るには、距離がありすぎる。仮にたどり着けたとしても、おそらく、けやき通りは、警官が巡視しているにちがいない。
健二は、再び作蔵を背負って歩き出した。今度は、美雪が、作蔵の背中を持ち上げるようにして、うしろからついてくる。
朝からのくもり空が、一段と暗くなり、健二の額に、ポツリポツリと雨があたりはじめた。遠くから、連盟と機動隊の争う声や音が、風に乗って伝わってくる。
このころ、おばけ工場ではもちろん、大河内町役場の周辺でも、座りこみを続けていた婦人のデモ隊に対して、警察が実力行使に出ていた。
「何をするんだ!暴力はやめろ!」
地べたに座っていた女たちを、無理やり立たせて、つれていこうとする警官隊に、秀一は怒鳴った。
「佐和子さん!」
佐和子も、警官に腕を引っぱられていた。となりにいた鈴子が、別の警官に体を引きずられていく。
「お母さん!」
悲鳴を上げた佐和子を助けようとして、秀一は、力のかぎり警官に体あたりした。
もう、だめだ。予想していたことが、現実になってしまった。
秀一は、警官が倒れたすきに、佐和子の手を引いて走り出した。
「お母さんが!」
「お母さんなら、心配はいらない。何もしてないんだから。でも、君は学生だろ?たとえ無実でも、警察につかまってはだめだ!」
秀一は、そう言って、佐和子をなだめた。
偶然にも、健二と佐和子の二人は、同じ時間に、それぞれのクラスメイトに助けられて、難を逃れたことになる。
やがて、座りこみを続けていた、ほとんどすべての住民が、警官隊に連行されていった。
最後まで気勢を上げていた貞行たちも、首根っこをつかまれて、どうすることもできなかった。
そして、時を同じくして、道を封鎖していた成瀬運輸のドライバーたちも、道路交通法違反を理由に、次々と検挙されていった。成瀬元も、さんざん抵抗したあげく、複数の警官に取り押さえられた。
海上にくり出していた、大内英二の率いる漁協の船団も、猛烈な勢いで迫ってきた、海上保安庁の巡視艇によって、港の内へと押し戻された。
大河内町を震撼させた、センチュリーWADA出店反対連盟の大規模な抗議行動は、ここに収束を迎えたのである。
けれども、今の健二に、こうした事態の把握ができていたわけではない。
健二は、ただ、ひどい無力感に襲われていた。
和助を、義男を、そして、若菜を犠牲にしてしまった。正門で乱闘に加わっていたはずの一馬たちは、どうなったろう?町役場に押しかけていたはずの母や姉のことも、気になる。
「雨が強くなってきた。あと少しだから、がんばって」
美雪の声援に、あと押しされるようにして、健二は、ようやく西団地にたどり着いた。十棟以上ある団地のひとつに、美雪の家はある。
助かったのは、エレベーターが、団地に増築されていたことだった。美雪の家は、最上階の五階にあったから、エレベーターがなければ、大変なことになるところだった。
美雪に続いて玄関に入ると、昼間だというのに薄暗く、あたたかな生活感は、ほとんどなかった。
美雪は、蛍光灯をつけると、すぐに押入れからふとんを引っぱり出して、作蔵を寝かせた。
「迷惑かけて、申し訳ない。恩にきますよ。なに、いつだって少し横になってれば、治っちまうんだ。心配ない・・・」
「じいちゃん、本当に薬とかいらないのか?」
「家に帰れば、医者からもらった発作用の薬があるが、飲んだことはない。ちょっと無理がたたっただけだ」
ちょっと無理がたたっただけとは思えない、作蔵の様子だったが、健二には、どうすることもできなかった。
美雪は、氷水でしぼったタオルを作蔵の額にあてた。それが心地よかったのか、作蔵は、すぐに寝息を立てはじめた。
冷蔵庫から出した麦茶を、二つのコップに注いで一気に飲み干すと、健二と美雪は、はあ~っと深く息をついて、その場にへたりこんだ。まるで、体が地の底へ沈んでいくような疲労感が、二人を襲った。
「本当に、だいじょうぶかしら・・・?」
「じいちゃんのことだからな。なんとか切り抜けるさ」
外では、雨足がかなり強くなっている。ベランダに落ちる水滴の音が、しんとした部屋の中に、ポトリポトリと聞こえていた。
「そうだ、悪いけど、電話を貸してもらえないか?家にかけてみたいんだ」
「いいわよ、テーブルの子機を使って」
健二は、美雪が指差したキッチンテーブルに目をやった。ポットや調味料が置かれたテーブルのすみで、電話の子機が充電されている。
すぐに家の番号を押してみたが、十回ほど着信音が鳴っただけで、留守番電話になってしまった。
「やっぱり、家にはいないか・・・」
「だれも出ない?」
「ああ、おふくろや姉ちゃんも、町役場に行くって言ってたからな。じいちゃんたちには、内緒だったけど」
健二は、念のため、作蔵と自分が、美雪の家にいることを留守番電話に吹きこみ、ここの住所を加えておいたが、電話を切ると、うつむいたまま、だまりこくってしまった。
家族のことが、気になってしかたなかった。それに、若菜や一馬たちのことも。
美雪は、何を思ったか、ふと立ち上がり、ガスコンロの火をつけた。しばらくすると、部屋の中にあまいにおいが立ちこめた。
「疲れているでしょ。こんなものしかないけど」
美雪は、そう言って、おしるこの入ったスープカップとスプーンを健二に手わたした。
おしるこをスプーンですくうのは、奇妙な感じがしたが、湯気の立ち上る、その温かな魅力には勝てなかった。一口すすってみて、本当にうまいと思った。
「喜んで食べてくれる人は、だれもいないから」
美雪は、そう言った。
「これ、おまえが作ったのか?」
「うん、わたし、おかし作りが趣味なの。おかしだけじゃなく、ふつうの料理もするけどね」
「飯のしたくも?」
「そうよ。聞いているかもしれないけど、うち、母親がいないの。五年前に病気で死んじゃったから。だから、そうじや洗濯、なんでも手伝わないとね」
「・・・・・」
「あっ、でも、かわいそうだなんて思わないでね。わたし、今の生活に満足してるし、そりゃあ、母さんのようにはできないけど」
美雪は、テレビの横に飾られた写真立てに目をやった。
家族三人で撮った写真の中で、まん中の幼い美雪の肩に手をかけて笑っているのが、母親なのだろう。美雪と似た、しっかりとしたまなざしが、印象的な母親だった。
「でも、前におれの家に来た時、ケーキを見て、母さんが喜ぶだろうなって言ってたよな?」
「あれは、ああ言ってみたかっただけ。母さんは、お菓子作りが大好きだった。その影響で、わたしも好きになったんだ。今は、父さんと二人暮らしだから、あまり、お菓子なんて作らなくなっちゃったけど。父さんは、あまいものが苦手なの」
「おまえ、おやじさんの転勤のたびに、転校してるのか?」
「そういうことになるわね。父さんは、田舎のおばあちゃんの家に、わたしを預けようとしたんだけど・・・。わたしが、いやだって言ったの。だって、父さんひとりきりしたら、かわいそうでしょ?」
そして、美雪は、父親とともに、新しい赴任先である大河内町にやってきた。健二と出会い、その多くの友人と出会った。
クラス全員が、地元の出身である健二たちの教室に、ただひとり、センチュリーWADA大河内町支店の、副支店長になるはずの父親を持つ少女。
健二は、たずねないではいられなかった。
「どうして、オレたちを助けたんだ?」
カップで指先を温めていた、美雪の横顔に、サッと緊張が走った。
「クラスメイトを助けるのは、当然でしょ・・・」
「そうか、クラスメイトか。でも、オレたちは、敵同士だぜ」
健二は、口を開きながら、ちがう、自分が言いたいのは、こんなことじゃない!と思った。もう、美雪の父親が、和田コーポレーションの幹部であろうがなかろうが、そんなことは関係ないのだ。
「そう、わかってる。敵同士だってこと。わかってる・・・」
美雪は、息をひそめるようにして、そうつぶやいた。それから、顔を横へ背けた。肩が、小きざみにふるえている。
健二は、まずい!と思った。
美雪が、泣いている。あの、どんなことにも、不屈の闘志で立ち向かってきた美雪が、今、健二の目の前で、ふつうの女の子のように泣いていた。
「あっ、いや。今のはナシ!忘れてくれ」
健二が、あわてて言葉をそえると、美雪は、赤くはらした目をこちらへ向けて言った。
「そんなに、かんたんには忘れられないよ」
「そう言うなよ・・・」
「あなたには、女の子の気持ちなんてわからないのよ。そもそも、どうして、わたしがあんなところにいたのか、わからないでしょ?」
「どういうことだ?」
美雪は、ため息をついた。なぜか、しばらく口を閉ざしていたが、やがてぽつりとこぼした。
「青嶋さんは、素敵な子よね。強くてかわいくて、思いやりがあって」
「・・・なんだよ?どうして、若菜の話なんだ?」
「もう、にぶいわね。昨日、放課後に、青嶋さんから声をかけられたのよ。このままだと、あなたがつかまっちゃうって。だから、なんとか助けてあげてほしいって」
「若菜が?昨日・・・?」
「青嶋さんは、初めからあなたを助けるためになら、おとりになる覚悟だったのよ。だから、わたしは、彼女の気持ちを大切にしたかったの。父さんに言ったら、あの非常口の鍵を開けておいてくれた。あとは、必死にあなたを探したわ。会えて本当によかった・・・」
健二は、がく然となった。まさか、若菜に、そこまでの心配をかけているとは思わなかった。
美雪は、そんな健二をじっと見つめていたが、やがて、気を取り直したように言った。
「あ~あ、青嶋さんが、すごくいやな子だったらよかったのに。入りこむ余地ないんだから、やんなっちゃうわ」
美雪は、笑って涙をぬぐった。
そんな泣き笑いの美雪を見つめながら、健二は、はっきりと気づいた。おれは、美雪を敵だなんて、これっぽっちも思っていないのだと。
もうずっと前から、そんなふうには思っていなかった。美雪は、勝気で生意気で、いつも上からものを言って。
でも、いつからだろう。健二の中にあった美雪への敵対心は、泡がはじけたように、きれいになくなっていた。
かわりにわき上がってきた感情は、自分でも、説明しようのないものだった。
それは、どこか、若菜に対する気持ちと似ていた。似ていながら、少しだけちがっていた。
「そ、そうだ。貞行が、おまえにあやまっといてくれって言ってたぞ。ほら、渡辺貞行。キャンプで、おまえに因縁をつけてきたやつだよ」
「・・・・・」
「あいつ、ずいぶん反省してたぞ。おまえが、駅前通りの源三郎のおっちゃんのとこまであやまりにいったのが、こたえたらしい。根は、悪いやつじゃねえんだ。許してやれよな」
健二は、少しでも、場をつくろう言葉が見つかって、ほっとした。貞行とは、ずいぶん派手なケンカをした間柄だったが、思いがけないところで助けられたと思った。
美雪は、小さく首を縦にふると、だまって窓の向こうをながめた。少しほほ笑みながら、けれども、どこか、その横顔はさみしげだった。
健二も、これ以上、無理に明るさをつくろうことはできなかった。
「・・・・・おれたちは、おまえのおかげで助かった。でも、これから先は、どうなるんだろう?」
「わからない・・・。でも、あなたたちは、今までどおりでいられる」
健二の問いかけに、美雪は、再び顔をこちらへ向けて断言した。
「今までどおり?」
「いいわね。あなたには、仲間がいて。やさしいお母さんがいて、お父さんがいて、家族がいてくれる。大切な、幼なじみがいてくれる」
「おまえだって、いつも、クラスの女どもにかこまれてるじゃねえか」
「でも、自分の危険もかえりみず、おとりになってくれるような子はいないわ」
美雪は、健二をにらみかえすようにして言った。どうも、若菜のことに話を戻したいらしい。
美雪は、真剣だった。本当に真剣になった時、人は、こんな静かな目をするのだと、健二は思った。
「それは・・・、うん、そうかもしれない」
「でしょ?」
「それなら、おれがなってやるよ」
「え?」
「だから、おれが身代わりになって、おまえを守ってやるって、言ってるんだ」
健二は、思わず言ってしまった。
でも、口から出まかせを言ったわけではない。美雪のためになら、自分も、若菜のようなふるまいが、できるにちがいないと思った。
美雪は、あっけにとられたような顔をしていた。それから、アハハハと妙に明るく笑い、最後に「うん・・・」と小さくうなずいた。
黒いひとみが、大きくゆれている。何かを言おうとしたが、言葉にはならなかった。
その時、玄関のチャイムが鳴った。見つめあっていた二人の短い時間は、そこで途切れた。
「すいません。内藤佐和子です。弟が、こちらにおじゃましていると思いますが・・・」
玄関のドアの向こうで、佐和子の声が聞こえた。健二は、はじかれたように立ち上がり、ドアノブに飛びついた。
「姉ちゃん、無事だったのか?」
「健二こそ、つかまらなくてよかった!」
ドアが開くと同時に、二人は、小さな子供のように、手を取りあって喜びを爆発させた。その様子を、佐和子のとなりにいた秀一が、笑顔で見守っている。
「健二くん、無事で何より」
「秀兄ちゃんが、姉ちゃんを守ってくれたのか?」
「そうよ。お母さんは、警察につれていかれちゃったけど、だいじょうぶ。すぐに戻ってきたわ。おじいちゃんは?」
「・・・まだ、寝てる」
健二がふり返ると、作蔵の小さな声がした。
「いや、今、気がついたぞ・・・。みんな、すまなかった。・・・佐和子も心配をかけたな」
ふとんの上に起き上がろうとする作蔵を、美雪がなだめる。
「みなさん、どうぞ、上がってください」
美雪は、そう言って、佐和子と秀一を部屋に招いた。
「美雪さん、本当にありがとう。あなたは、祖父の命の恩人です」
「そんな、おおげさです」
佐和子に頭を下げられて、美雪は、めずらしく顔を赤らめ、照れた様子だった。そのしぐさがおかしかったのか、作蔵の顔にも、笑みがこぼれた。
「いや、あんたは、命の恩人だ。あの時、あんたが助けてくれなければ、わしは死んでいたかもしれん」
作蔵の笑顔につられたように、美雪も、かすかに笑った。佐和子も、笑った。そんな三人の様子を、健二と秀一は、ほっとしたようにながめた。
健二は、秀一の顔を見上げて言った。
「秀兄ちゃんも、ありがとう。やっぱり、秀兄ちゃんは、直球派だな」
「いや、本当の直球派は、君の姉さんだよ。警官隊を前にしても、佐和子さんは、まったく恐れていなかった。ぼくの方が、たじたじになったよ」
秀一は、そう言って、肩をすくめて見せた。いつもは、弱々しい印象しかない秀一が、今日は、男らしく見える。
美雪は、「そうだ」と言って、作蔵たちにも、おしるこをふるまった。朝から、殺伐とした状況の中に身をおいてきた一同は、その温もりに、ようやく落ち着きを取り戻した。
「このおしるこ、うまいなあ」
秀一が、感心したように言った。
「美雪が、作ったんだぜ。お菓子作りが、好きなんだってさ」
健二が、自分のことのように自慢して言うと、
「そうか。それなら、将来、うちで働いてくれればいいのになあ」
作蔵も、しわを作りながら目を細めた。
佐和子は、すっかり美雪と意気投合して、菓子の話に花を咲かせている。その様子を横目で見ながら、秀一は、何か考えごとをしているようだった。
「ああ、これならいけるかもしれない・・・」
ポツリとつぶやいた秀一を見て、健二も気がついた。
もしかしたら、秀一は、今、佐和子のシュークリームのことを考えているのではないだろうか。「足りない何か」を探していた秀一は、美雪のおしるこに、その答えを見出したのかもしれない。
しばらくしてから、健二たちは、美雪の家をあとにした。
作蔵は、まだ、足もとがふらつく気配があったので、秀一に背負われていくことになった。
「あんたには、言葉ではつくせないほど、世話になった。お父さんに、よろしく伝えておくれ。感謝していると」
帰り際、作蔵は、エレベーターの下まで見送りに出た美雪に、あらためてそう言った。
美雪は、少し驚いた様子で「はい」と答えたが、連盟の役員である作蔵の、自分の父への言葉は、素直にうれしいようだった。
いつの間にか、雨がやんでいた。西日を浴びた、あかね色の雲が、ゆっくりと流れている。
健二たちは、雨上がりのさわやかな風を受けながら、家路をたどった。
けやき通り商店街に入ると、すでに、警官の姿は見あたらず、町は、ふだんと変わらない静かな情景になっていた。
長かった一日が、ようやく終わったのだ。
秀一の背中でゆられていた作蔵が、低い声でつぶやいた。
「きさま、なかなか見所があるな。成人したら、わしが一杯おごろう・・・」
× × ×
ナイトウ洋菓子店では、義男と鈴子が、健二と作蔵の帰りを、今か今かと待ちわびていた。
二人とも、一度は警察につかまったものの、かんたんな取り調べを受けただけで、家に戻されたらしい。
大河内町全体を巻きこんで、あれだけの大規模な衝突がおきたのだ。警察も、可能なかぎり、ことを穏便にすませ、事態の収束をはかりたかったのだろう。
「健二!」
鈴子は、健二を見るなり、その体を力いっぱい抱きしめた。
「お父さん、おかげんはいいんですか?」
「ああ、もう、このとおりだ。若い連中に救われた。ありがたい話だ」
鈴子の問いに、作蔵は、力強く両肩をまわして見せた。
「よくやったな」
義男も、笑顔で、健二の頭をぐしゃぐしゃにかき乱す。
当分、家には帰ってこられないだろうと心配していた義男が、思いがけず、早くに釈放されたことで、健二も、だいぶ気持ちが楽になった。
義男によれば、機動隊相手にさんざん暴れまわった和助は、うまく包囲の網をくぐり抜けて、おばけ工場から脱出できたとのことだった。気になっていた一馬や弘樹、満久も、どさくさにまぎれて逃げ出せたという。
問題は、若菜だった。
若菜は、義男と同じく警察の手に落ちていた。もちろん、すぐに釈放されたが、健二にとって、それは大きな痛みだった。
「おれ、ちょっと若菜の様子を見てくる」
健二は、家からかけ出した。
青嶋酒店の、裏手にある玄関から入ろうとすると、「来ないで」と、二階のベランダから声がかかった。若菜だった。
「若菜、だいじょうぶなのか?今、そっちにいく」
「来ちゃだめ。父さんから、初めてたたかれたの。顔がはれているから、見られたくない」
若菜の言葉に、健二は胸がつぶれる思いがした。
日没後の暗がりの中、若菜の顔は、はっきり見えない。健二は、うつむいた。まるで、今年最後のあえぎのように、ヒグラシがさみしく鳴いた。
「オレがしたことは、まちがいだったのかもしれない・・・」
日ごろ、おとなしい若菜の父が、娘をしかったのは、当然のことだった。大切なひとり娘が警察に補導されて、心配しない親はいない。
けれども、若菜は、首を横にふって、健二の言葉を否定した。
「そんなことはない。あんたがしたことは、正しかった。みんな、そう思ってる」
「でも、おまえをひどい目にあわせちまった」
「わたしのことは、いいの。自分の意思で、やったことなんだもの」
「・・・・・」
健二は、若菜の思いの深さを、痛いほど感じた。
美雪の言ったとおりだ。こんなやつは、ほかにいない。オレみたいなやつのために、身がわりになるなんて、どうかしている。
どうかしていると、しかりたくなるほど、若菜は、自分にとって、かけがえのない大切な存在なのだ。
「なあ、若菜、そっちに行かせてくれよ。でなきゃあ、降りてきてくれ」
健二は、言った。
若菜は、だまっていた。思いあまって、健二が上がっていこうとすると、小さな女の子のように、いやいやをした。
「だめだったら。今は、あんたの顔を見たくない。見たら、わたし、泣き出しちゃうかもしれない」
そう言いながら、若菜は泣いた。これが、健二の見た、二度目の若菜の涙だった。
風が、急に冷たく感じられる。点々と、星が輝きはじめた夜空の下、健二は、途方にくれて、その場に立っているしかなかった。
若菜のそばへ行きたい。でも、行けない。どうしていいかわからないまま、健二は、いつまでも、若菜のすすり泣く声に耳をかたむけていた。