第一章

手芸クラブに入ったのは、他に行くべきところがなかったからである。

本当は、天文クラブに入りたかったけれど、部員六人、全員がオタク系男子という環境に女子ひとりが飛び込む勇気は、とてもなかった。

もうひとつ、文芸クラブにも興味があったが、活動内容が詩や小説の創作というよりは、古典文学の現代語訳という、なぜ、中学のクラブ活動でそんな専門的な分野に向かったのかわからないものだったので、やめておいた。

結局、行き場がなくて、多くても週一回しかない手芸クラブに落ち着いた。

クラブ活動から部活に昇格したところは、どこも、それなりのハードスケジュールだったし、手芸クラブなら、編み物が得意なソラにとっては、片手間でできると踏んだからだ。

その思惑は、当たっていた。入学したての一年生のころならともかく、二年生となり、先輩の三年生たちもクラブ活動から卒業した今となっては、週一回のクラブ活動は、息抜きみたいなものである。

ソラは今、三か月前から編み始めた紺色のマフラーと向き合いながら、窓から差し込む午後の日差しに、「まったりだわあ~」と軽い眠気を覚えていた。

その「まったり」は、思いっきり顔に出ていたらしく、いっしょに編み物をしていたクラスメイトの由衣から「こらこら、眠るんじゃない!中河内ソラさん!」なんて叱られてしまう。

「眠ってないよ~。まったりしてただけじゃん。それに、フルネームはやめてよ。名前、気にしてんだから」

「え~っ、どうして?ソラっていい名前じゃん」

「そっちじゃなくて、中河内の方。ナカゴウチって、なんか、いかつい感じしない?」

「別にしないけどなあ」

秋の午後の教室。

幾分、暑さも和らいで、キンモクセイが香り、落ち葉が風に吹かれ、そろそろ焼き芋が恋しくなってくるこの季節を、ソラはなかなか気に入っている。特に焼き芋がいい。

「う~ん、お腹すいたなあ。マフラーよりサツマイモを編めばよかった」

「いやいや、それ、食べられないし。使い道もないし」

「授業中に触っていられるだけでも幸せだよ。給食前の精神安定剤ってやつ」

「はいはい、ソラのお腹は、いつだって絶好調だもんね。うらやましい」

由衣は、軽くソラをあしらって、同じくマフラーを編んでいるが、こちらはド派手な赤だし、大きいし、巻いているだけでサンタクロースになった気分を味わえそうだ。

今日は、一週間で唯一のクラブ活動のある日だが、四月に入ったばかりの一年生二人が、それぞれ家の事情で帰宅しなければならなかったため、ソラと由衣は、あてがわれたクラブ室に移動するのも面倒くさく、教室で編み物に取り組んでいる。

つまり、クラブの構成人数は、たったの四人。来年度、新しい部員が来てくれなかったら、クラブそのものの存続が危ぶまれる事態だ。

「やっぱり、天文クラブがよかったなあ。なんで、女子ゼロなんだろ?っていうか、あの状況だからなのかなあ」

「オタク男子六人は、きついね~。こっちも、オタク女子だけど」

「由衣ってオタクかなあ?」

「オタクだよ、オタク。アウトドア派のオタク」

アウトドアとオタクって結びつくものだろうかとソラは首をひねるが、由衣いわく、「撮り鉄みたいなものだよ」とのこと。

たしかに撮り鉄は、れっきとしたオタクかもしれないが、アウトドア派でもある。

違うのは、由衣の興味が鉄道ではなく、自然というつかみどころのないものであること。簡単に言ってしまえば、海や山が好きってだけの話なのだが、由衣の他と違うところは、その保全にまで興味を持っているという点にあった。

由衣の父親は、環境省の自然保護官をしていて、その影響をもろに受けているらしい。

自然保護官というのは、主に国立公園などで動植物の保護をしたり、人と自然との触れ合いを推進したりする職業のことである。

難しい試験を突破しなければなれない狭き門の専門職だが、由衣は、父親の跡を継いで立派な自然保護官になりたいという明確な目標を、中学二年生の今から持っている。

ひるがえって、ソラの方は、星を眺めたり詩を書くことが好きといった夢見る少女を体現したような性格で、人前では言わないようにしているが、こっそり宇宙人の存在を信じていたりする。

それで、天文クラブをねらってみたものの、オタク男子たちの壁は厚かった。

結局、由衣も誘って手芸部に落ち着いたわけだが、ほとほと、主体性のない人生だなあなどと、疲れた中年のおじさんのようなマイナス思考に陥っている。

「由衣ってすごいね。今から将来の目標が決まっているなんて。わたしなんて、さっぱりだよ。高校も、行けるところに行ければいいやなんて思っちゃう」

「そんなことないよ。詩が書けるって、やっぱり特別な才能だよ。この前の国語の授業、わたし、感動しちゃった」

由衣が言っているのは、宿題に出された詩の発表をクラス全員の前で読み上げた時のことで、星空の神秘をうたい上げたソラの詩は、国語の先生から大いに褒められる結果となった。

「えへへ。それほどでもないけどね」

なんて、鼻の頭をこすって照れ隠しをしたソラだったが、まんざらでもないのは、そのニンマリとした顔を見ればわかる。

この、あっさりとその気になっちゃうところ、直した方がいいかなあ。

気分を良くしたソラが、こっそりとポケットの奥に隠し持ってきたグレープフルーツのキャンディーを由衣に差し出した時のことである。廊下の方から、男子たちの鋭い声が聞こえてきた。

「なんだよ。今週は、おまえが水槽の当番だろ?何で、水替えしないんだよ!」

「だから、やったって言ってるだろ。見てなかったのかよ?」

「あんなの替えたことにならねえよ。表面の水を少し取っただけじゃんか」

「毎週、水替えするなら、それで十分なんだよ。おまえら、金魚の飼い方も知らないのか?」

もめているのは、ソラと同じクラスの男子数名である。教室の後ろの隅に置いてある金魚の水槽の話をしているらしいが、放課後という少し緊張感が途切れた時間ということもあって、それぞれ、感情がむき出しになっている。

複数でもめていると言っても、ターゲットになっているのは、その中のひとりだけで、正確に言うと、四人の男子がまわりを囲むようにして、残りのひとりに罵声を浴びせていた。

「なんか、やばくない?先生、呼んでこようか?」

包み紙を破ろうとしたキャンディーをあわててポケットに突っ込んで、由衣が言った。

「うん、その方がよさそうだね・・・」

口に入れる前でよかったと、同じくキャンディーをポケットに戻したソラが席から立ち上がりかけた時、男子たちの輪がぐんと広がった。

何事かと思って目を見開くと、輪の中心で二人の男子が胸ぐらをつかみ合っている。

ひとりは、他から責め立てられていた生徒で、磯谷セイジという名の転校生だ。どういう経緯かは知らないが、半年前にソラのいるこの学校へ転校してきた。

「ケンカやめなよ。先生、呼びに行くよ!」

思わず教室から飛び出したソラが、強い調子で忠告した。

先生と聞いて、厄介なことになると思ったのだろうか、不服な表情を浮かべながらも、二人の男子は、つかんでいたそれぞれの手を離した。おたがいに本気で殴り合う気はなかったようで、そのとたん、白けた空気が漂う。

「いいよ。替えりゃあ、いいんだろ!」

吐き捨てるように言うセイジ。

「そうだよ。最初っから、そうすりゃいいんだよ!」

ムッとした顔の男子たち。

うわあ、この険悪な空気、やめてほしいなあ。

仲裁に入ったものの、この後どうしていいかわからなくて、ソラは、おろおろするばかりだった。

最近、ケンカが多くなった。クラスの中で。時には生徒同士、時には先生と生徒。いずれにしても、必ず関わっているのが、今、水槽の水替え問題の渦中にいる磯谷セイジだ。

何が気に入らないのかは知らないが、磯谷セイジは、いつも怒っている。怒っているというか、とにかく、愛想がない。転校してきた時のあいさつだって、明後日の方角に目を向けたまま名前を言っただけで、「よろしく」の一言もなかった。

はっきり言って、普通なら金魚の水替えくらいでケンカになることなどないだろう。それが、こんなもめごとに発展するのには、磯谷セイジのそうした面が大きく関わっているのだ。

中学二年と言えば、まさに、中二病。内面に色々抱えている子供は多く、五十代のベテランである担任の小森先生なら、そういう生徒の扱いにも慣れているはずだが、そんな熟練教師の経験をもってしても、磯谷セイジは厄介な存在であるらしい。

「あいつ、オレのこと嫌いなのかな?」

戸惑ったような顔で、クラスの他の男子生徒に尋ねかけている先生を、ソラは目撃したことがある。

そんなわけで、学校における磯谷セイジの評判は最悪。今日のところは口ゲンカだけで収まったが、いつか、殴り合いになる日が来るだろうと、ソラは不安を感じている。

 

×     ×     ×

 

「まるで、夏の夕立だね」

「夕立?」

他愛もない男子のケンカにすっかり白けてしまって、早々に帰宅の途についたソラと由衣。道すがら奇妙な例えをする由衣に反応して、ソラは、思わず問い返した。

「一日一回、決まったようにやってくるじゃん。夏の夕立って」

「そっか。毎日何かでもめてるってことか」

「もっとも、最近の夕立は、来たり来なかったりメチャクチャだけどね」

磯谷セイジの心の中も、温暖化で狂った気象のように、やっぱり、メチャクチャなのだろうか?

そもそも、どうやったら、あんなふうにずっと怒り続けていられるのか、ソラには、わからない。

人間って、怒ったり笑ったり、いろいろな感情を表現することはできるが、それを長時間維持するのは難しい。能天気なソラなど、家で母親とケンカをしても、おやつを食べれば、たちまちご機嫌になってしまう。くやしいけど、おいしいものの力にはかなわない。

けれども、磯谷セイジは違う。いつ見ても、いつ出会っても、必ず険しい目つきをしているのだ。

天敵に追いつめられた獣のような目。そうだ。あれは、追いつめる方ではなく追いつめられる方の目だ。

「クラスの中がもめてるって、いやだよね。肩こっちゃうもん」

「わたしも~っ」

由衣に合わせて相づちを打ったものの、ソラは、心のどこかで疑問を持っている。本当に、磯谷セイジは、いつも怒っているのだろうかと。

なぜなら、ソラは、みんなの前では見せない磯谷セイジの意外な一面を知っているからだ。

それは、さっき、教室で話題になったソラの詩が発表された翌日。まだ、一週間も過ぎていない、つい先日のことだ。

その日、いつもと同じように由衣と下校したソラだったが、由衣と別れ、自宅の玄関までたどり着いた時に気づいた。

あれ?カバンの中の小さなポシェットに入れた自宅の鍵がない。ポシェットごとない。

ソラの父親は特別養護老人ホームに勤める介護福祉士、母親は大学病院勤務の看護師で、どちらも夜勤や二十四時間勤務があったりするから、どうしても、家に両親不在という日が多くなる。

それで、自宅の合鍵を常に持たされているソラなのであったが、その鍵が無くなっているのだ。

さあ、困った!たちまち、全身から血の気が引いた。

鍵や財布を落とした、あるいはどこかへ忘れてきたことに気づいた時の、あの身も凍るような気分は、一生のうちに一度だって味わいたくないものだ。

どこで落としたんだろう?教室から出た時には、あったはず。いやいや、それもあいまいな記憶でしかない。

教科書やノートを取り出した時に落ちたのかしら?それなら、掃除の時間にミッフィーの絵柄がついた鍵入りポシェットが、だれかの目に止まっているはずだ。

(と、とにかく、学校へ戻ろう。今来た道をくまなく探してみよう・・・)

そう思い直して、目からレーザー光線でも発射しそうな勢いで通学路のアスファルト道に瞳を凝らしてみたが、結局、校門に着くまでポシェットは見つからなかった。

学校には、秋季大会に臨む野球部やサッカー部の部員たちの姿はあっても、他の生徒はほとんどはけてしまって、教室に戻ってみても人気はなかった。

「どうしよう、ここにもないよ・・・」

自分の机の中はもちろん、清掃機具の入ったロッカーの中まで探してみたが、やっぱり、ポシェットは見つからない。

母さんに、鍵をなくしたって電話してみようか?ううん、父さんの方がいいかも。

いや、だめだ。どちらも患者相手の仕事中だし、スマホに出てもらえない可能性が大きい。何より、二人に心配をかけたくない。

事情を説明して、由衣のところにお邪魔させてもらおうか?その前に交番へ行ってみようか?それとも、職員室へ行って、先生に相談してみる?

あれこれ思い悩んでいるうちに、不意に後ろから声を掛けられた。

「おまえ、何してるんだ?」

人がいるなんて思ってなかったから、飛び上がってしまいそうなほど驚いた。「うひっ」とか何とか、叫んじゃってたかもしれない。

振り返ってみて、もう一度「うひっ」って思ってしまった。だって、そこにいたのは、お騒がせ問題児の磯谷セイジだったからだ。

「えっ、ううん。何でもない」

「何でもないことはないだろう。顔、真っ青だぞ」

え~っ、そうなの?わたし、そんなゾンビ顔になっちゃってる?

「鍵落とした。家の鍵・・・」

「家から引き返してきたのか?」

「そう」

「親とかに電話できないのか?」

「できない。というか、したくない」

「・・・・・」

ソラの返答を聞くと、一瞬、セイジは神妙な顔つきになり、つかつかと無遠慮に歩み寄ってきた。

「制服のポケットとかにもない?」

「ない」

「自分の机の中にも?」

「うん」

「朝から何したか、思い出してくれ。行ったところとか」

「え?」

「おれも一緒に探すよ」

驚いた。磯谷セイジが、こんなことを言うとは思ってもみなかった。あの、いつも怒っている磯谷セイジが・・・。

「行ったところは、職員室。給食の配膳室。それから、手芸クラブのクラブ室にも行ったかな。でも、鍵の入ったポシェットは、いつもかばんに入れてあるから、持って行ってないよ」

「そうか。でも、いいや。行くだけ行ってみよう」

ソラは、内心、そんなところにはないと言いたかったが、今はセイジの意見に従おうと思った。

(なんだかな~)

そう、なんだかなのだ。鍵を無くして弱りはてたところにセイジと出会って、「うひっ」とかなってたくせに、なんだか、とてもあったかい。

自分の力だけではどうすることもできない事態におちいった時の、思いがけない他人の優しさほど心打つものはない。

ソラは、口を真一文字にして歩くセイジのすぐ後ろを同じく黙って歩きながら、自分より頭半分背の高い少年の背中を眺めていた。

ケンカを好むほどの体格でもないんだけどなって思う。

セイジの背丈は、クラスの中でも中間くらい。特別貧弱というわけではないが、特別恰幅がいいというわけでもない。こっそりボクシングとか空手でも習っていない限り、素手で殴り合いになったら、五十パーセントの確率でやられてしまうだろう。

顔は・・・、アイドルとまではいかないけれど、結構整っている方かもしれない。性格が優しければ、それなりにもてる感じ。

もったいないなあ。なんて、客観的評価を頭の中でしてみたものの、今、その優しさに接しているソラには、セイジの背中が見た目よりも大きく感じられる。

「えっと、手芸クラブの部屋ってどこ?」

職員室、配膳室と行ってみたけれど、当然のように手掛かりはなく、最後にセイジから尋ねられてクラブ室に案内したものの、結果は同じだった。

「・・・ごめん。やっぱり、見つからないな」

「ううん、あやまらなくていいよ。わたしが悪いんだし」

「これからどうする?両親が戻ってくるまで、家に入れないだろう?」

「玄関のとこで待ってる」

「もうじき暗くなるし、冷えるぞ。おれの家で待たせてやりたいけど、ちょっと、それはまずいんだ」

それを聞いて、ソラは、心底びっくりした。

そもそも、男子の家にひとりで行くなんてありえないが、それだけではない。セイジがそこまで自分のことを心配してくれていることに、胸の奥がざわざわしたのだ。

ざわざわかなあ?

ソラは、今の感情をどんな言葉で表現したらいいのか知らない。でも、クラスの女子がよく口にするキュ~ンっていうのとは違うと思う。磯谷セイジにキュ~ンだなんて、それこそ、絶対にありえない。

「大丈夫。それなら、由衣のとこへ行くようにするから」

「ああ、それなら安心した。おまえたち、いつも一緒にいるもんな」

セイジは、「中途半端に期待を持たせてごめん」とか「何の役にも立てなくてごめん」とか、やたらと「ごめん」を連発して帰っていった。

しかも、途中まで家の方角がいっしょだからと由衣の家に向かうソラについてきてくれたのだ。

そんなわけで、ソラは、セイジに対して他の人とは違う印象を持っている。口に出して言うとクラスメイトからいっせいに反撃されそうだから、黙っているけれど。

結局、家の鍵は見つかった。それも思いもよらないところ、なんと、自分の部屋の机の上。

そう言えば、あの日は、母さんの勤務シフトが遅番でソラの方が先に家を出たのだった。そして、合鍵を部屋に残したまま、母さんに鍵をかけられてしまった。

あたりがすっかり暗くなってから、由衣の家まで迎えに来てくれた母さんと一緒に、ようやく帰宅できた時のポシェットのミッフィーが、どんなに懐かしかったか。

「あ~っ、会いたかったよ、わたしのミッフィー!」

そう言って、ポシェットに頬ずりしてみたものの、ペケ型の口から「おまえはペケや~」という声が聞こえてきたのは、ソラの気のせいだったか。

 

×     ×     ×

 

「どうせ、わたしは、ペケ人間だしぃ」

今年のお年玉で購入した念願の天体望遠鏡のファインダーをのぞきこみながら、ソラは、歌うようにつぶやいた。

「まわりの人に合わせて、言いたいことも言えないしぃ」

メロディになっているのかいないのかもはっきりしない、ずいぶん、自虐的な歌である。

「成績も普通だし、顔もスタイルも普通だしぃ」

もう、やけくそという感じだ。

それでも、夜空を見上げ、大切な天体望遠鏡をなでなでしている時、ソラは、この上なく幸せを感じる。

けっして、天文学に詳しいというわけではない。

星座図鑑を見て、いちばんわかりやすいオリオン座とかペガサス座にまつわる神話に思いをはせるだけで、プレアデス星団の温度がどのくらい高くて、どれほどの早いペースで星が誕生しているとか、馬頭星雲がどんな物質でできているかとか、そういう理科の授業で習うような難しい話には、なかなか興味がわかない。

だから、天文学者とか宇宙飛行士になりたいなどという目標は露ほどもなく、ただ、趣味で星を眺められればいいという程度のものである。

「宇宙飛行士になれるほど、頭もよくないしぃ」

おかしな歌は、ますますエスカレートしていく。

でも、これからは、一般の人でも宇宙へ行けるようになるかもね。

最近、世界の大金持ちが、ちょびっと宇宙へ行ったという話題がテレビやインターネットで騒がれるようになった。草創期の宇宙飛行士のように、決死の覚悟でロケットに乗り込むというような緊張感もなく、いよいよ普通の人が宇宙へ行ける時代になったと実感させるニュースである。

それでも、ソラは自身にとどめを刺すように歌う。

「大金持ちにだって、なれないしぃ!」

やっぱり、これだ!世の中、金である。金がないと、どんな望みもかなえられない。かなえられないに決まっている!

「フハハハハ!」

おっさんみたいな笑い方をしたら、たまたま、郵便受けの夕刊を取りに庭へ出てきた母さんから「おかしな笑い方しないの!」と怒られてしまった。

ソラは、今、二階のベランダにいる。昼間は洗濯物を干してあるベランダに天体望遠鏡を設置して、天体観測にいそしんでいる。いや、ただ、ボケっと夜空を見上げている。

部屋の明かりを消しても、電信柱の街路灯はあるし、時々、車がライトを点灯して走ってくるしで、けっして良い天体観測の条件とは言えない。

けれども、晩ごはんを食べて、お風呂から上がった後のこのひとときがソラは大好きだ。一日のうちでいちばんほっとできる至福の時間。あまり長く夜風に吹かれていると風邪をひくので、そんなに長くはベランダにいられないけれど、就寝前のソラのルーティーンである。

でも、ペガサス座って、魔女メデューサの首を切り落とした血からできたって神話があるから、けっこうホラーなのよね。

寝る前にそういうスプラッタな話は思い出したくないのだが、神話って、なかなか残酷だ。ギリシャ神話だけでなく、日本の神話にも、残酷な描写は多い。

(もう、こんなきれいなものを見て、よくそんな怖い話を思いついたわね)

ソラには、ギリシャ人だろうと日本人だろうと、昔の人の考えが理解できない。

わたしだったら、もっとかわいい詩を考えるのにな。そんな思いから書いた宿題の詩が国語の先生から褒められたことは、前にも述べた通りである。

ペガサス座のアルファ星は、地球の太陽よりずっと大きいし、温度だって高い。にもかかわらず、この広大な宇宙の中では、小さな光の点にすぎない。

わたしたちも同じだ。だから、人はもっと謙虚になって夜空を敬うべきなのだという意味の言葉を詩にしてみた。そしたら、褒められた。

「そうなのよ。宇宙には、地球の太陽より大きい星がいっぱいあるんだから。今夜だって、ほら。あんなに大きな星が輝いてるじゃない」

幾分気取って、北極星へと視線を向けたソラ。でも、その視線の先にあるのは北極星ではなく、その隣でもっと強く光っている巨大な天体だ。

(わあ、あんな大きな星があるなんて・・・、って、何?あのバカでかい星?)

今になって、いつもはない星の存在に気づかされた。いやいや、星座図鑑にだってあんな大きな星あるはずがない。

そして、いぶかしげなソラの瞳に飛び込んできたのは、さらなる驚きの展開だった。

「うっ、動いた?」

たしかに動いた!大きく動いたというわけではないが、ほんの少し左右にブルブルと震えたように見えた。

そんなバカなと思って、眉間にしわを寄せて瞳を凝らしてみる。

すると、ソラの視線に気づいたかのように、星は、じっと息をひそめて固まってしまった。少なくとも、固まっているように見えた。

天体望遠鏡でのぞいてみようかとも思ったが、焦点を合わせるのに時間がかかる。その間に、もしも星が再び動いたら?

そんなことを心配しながら、星とにらめっこをしていたソラは、次の瞬間、思わず「え~っ!」と叫んでしまった。

なんと、星がゆっくりと下降を始めたのだ。すぐ隣の北極星との距離が広がっているのだから、まちがいない。

「ままま、まさか、UFO?」

宇宙人の存在をこっそり信じているソラであるから、もちろん、UFOだって信じている。いつかは、見てみたいと小学生のころから願ってはいた。

しかし、こんなに早く、しかも、こんなにあっけなくUFOを見られる日がやってくるとは!

UFOは、しばらく下降を続けたかと思うと、その輪郭を突然のように大きくさせた。輪郭が大きくなったというのは、ソラの見ている角度からということで、つまり、UFOは、急速にソラの方へ向かってきたことになる。

背筋にゾッと悪寒が走った。

「ウソでしょ?こっちに来るつもり?」

口では、「UFOを見たい」とか「宇宙人に会いたい」とか言っても、それは、相手の宇宙人が平和的な宇宙人であった場合だけで、地球を侵略してくるような凶暴な宇宙人は勘弁してもらいたい。

ソラは、思わず後ずさりしながら身構えたが、さすがにUFOがソラひとりをねらってくるはずもなかった。

全体像がかなりはっきりしてきたUFOは、よく見れば赤や青の光を点滅させて、フラフラと酔っ払いのような奇妙な動きをしている。

音はなく、風に揺られるような動きから凧かハングライダーのように見えなくもないが、こんな夜分にそんなものが飛ぶわけもなく、飛行機やヘリコプター、ドローンの類とも思えない。

「ソラ~、もう寝なさい。階段の明かり、消すよぉ」

階下から、状況を全く理解していない母さんの間の抜けた声が聞こえてきた。ハッと我に返ったソラは、あわてて母さんを呼ぼうとしたが、口を大きく開けたところで思い直した。

(ううん、待って!あれが、本当のUFOだとしたら・・・)

再び下降を開始したUFOは、ゆっくりと町はずれの森の中へと、その姿を消していく。着陸したかもしれないと思ったソラは、何ごともなかったように声をつくろった。

「わかったぁ。おやすみなさい~」

大学病院で看護師をしている母さんは、筋金入りの超現実主義者だ。

サンタクロースはコスプレをした人間で、フライドチキンのチラシをまいたり、イベント業者に雇われたりしたアルバイトの人なのだよと、夢も希望もない話を目をキラキラさせて幼かった娘に語ってきたくらいだ。

ましてや幽霊、ましてや宇宙人なんてもってのほか。そんな母さんに、UFOの話をしたらどうなるか。

ソラは、天体望遠鏡を部屋の隅に戻しサッシの鍵をかけた。羽織っていたブルゾンの下のパジャマをお出かけ用の服に着替え、カーディガンに腕を通す。

なるべく音をたてないように。母さんに、娘は布団に入って寝ましたよ~って思わせるように。

それから、そうっと階段を下りてスニーカーを履き、玄関のドアから外に出て鍵をかける。幸い母さんはお風呂に入ったようで、娘の不審な行動には気づいていない。

「しめしめ、うまくいっちゃったね、こりゃあ」

ソラは、森への道を走りながら、こみ上げてくる興奮を抑えるのに必死だった。

こんな冒険、初めてのことだ。女子中学生が、深夜にこっそりと家を抜け出すなんて、もちろん、いけないことだとわかっている。

けれども、今の感情を抑えることができない。こわいと思っても、無茶だとわかっていても、それでも見てみたいのだ。

本物のUFO。本物の宇宙人!

幸いにも、町はずれの森にたどり着くまで、人っ子ひとり出会わなかった。

ソラの住んでいる町は、もっと大きな都会のずっと郊外にあって、都心まで行くには電車で一時間近くかかる。道の両脇には、あちらこちら畑が点在し、神社があったりお地蔵様があったりと、もはや、町というよりは村である。

町はずれの森というのは、正確に言うと行政が管理している公園のことで、敷地内にはいくつかの古墳も点在していた。心霊スポットとかUFOスポットとしては、もってこいの場所だ。

持ってきたLEDの懐中電灯は、直接目に当てたらまぶしいくらいの光を放ってくれたが、その青白い光は逆に幽霊を呼び出しそうで、どうも気味が悪かった。

それでも、ここまで来た以上、前に進むしかない。ソラは、深呼吸をひとつすると、鼻の穴をふくらめて森への一歩を踏み出した。

いざ、出陣じゃ!