その日は、理由もないのに、何となくそわそわした落ち着かない朝から始まった。
目が覚めた時には、雲ひとつない青空だったはずなのに、朝食を終えたころには、今にも雨粒が落ちてきそうなどんよりとした雲が、隙間なく空を覆い尽くしている。
「行ってきま~す」
珍しく両親よりも先に自宅を後にしたソラは、異常なほど早く流れる雲の動きに思わず目を見張った。
やはり、何かおかしい。地上付近は、まるで風がないのに、上空には突風が吹いているということだろうか?
ソラは、カバンの中に忍ばせたミッフィーのポシェットのことを考えた。ポシェットの中には、手のひらサイズに縮小された変身ベルトが入っている。もしも、今日、セイジに変身した老師様が登校してきたら、やっぱり、変身ベルトを返そうとソラは思っていた。
ソラは、考えたのだ。
もはや、わたしは、パットマンではない。ユカを抱えて夜空を飛んだあの日。ソラは、変身ベルトを装着してもパットマンになれなかった。
もう、変身ベルトは、わたしを必要としていないのだ。あんな天使みたいな姿では、とても、人命救助はできそうにない。腕は細いし、飛ぶスピードは鳥レベルだし、どう考えても、魔女メデューサの企てる攻撃に耐えられるとは思えなかった。やはり、変身ベルトは、もっと、それにふさわしい人物のもとに行くべきなのだ。
ところが、学校に着いたソラがいくら待っても、セイジは、登校してこなかった。セイジに変身した老師様も同じである。
朝のホームルームが始まると、担任からセイジが休みであることが伝えられた。体調を崩しているという。
ソラは、明らかにおかしいと思った。例え本物のセイジが体調を崩したとしても、老師様が現れない理由にはならない。むしろ、セイジになりすました老師様がやってくるはずである。
ポシェットの中の変身ベルトからは、アラーム音は伝わってこなかった。老師様は、こちらから連絡することはしないという約束をきちんと守っているようだ。
だが、そうなると、余計に気になる。二人に何かあったのではないか?
むくむくと、ソラの脳裏に不安がもたげてきた時だった。ぐわあんと、教室が空気とともにゆがんだような気がした。
めまいを起こしたのかと勘違いしたソラは、思わず「ひゃっ!」と叫びそうになったが、それよりも早く悲鳴をあげたのは、ソラのクラスメイトたちだった。
「キャアアア!」
体が宙に浮かんだように感じたのは、ソラだけではなかったはずだ。
「みんな、机の下に!」
先生の叫び声で、初めて地震だと気づいた。が、揺れ方が尋常ではない。
どこかでガラスの割れる音がした。窓の向こうに視線を走らせると、電線が縄跳びのように大きくたわんでいるのが見える。茶色い砂ぼこりが巻き起こり、開いた窓からもうもうと吹き込んできた。ガラガラと音を立てて、木造家屋が崩れていく。
遠くの雑居ビルが、ピサの斜塔のようにゆっくりと傾いていくのを目にしたソラは、とっさに、これはただの地震ではないと直感した。
(保健室だ!)
メデューサが、動き出したのだと思った。それも、かなり本格的に。セイジと老師様が、二人とも学校にやってこない理由が、ソラの中で、この地震と結びついた。
揺れが少しだけ治まるのを待って、ソラは、カバンの中からミッフィーポシェットを取り出した。ポケットに突っ込みながら机の下から飛び出し、「えいっ」とばかりに廊下へと走り出る。
「あっ、待て!」
担任が呼び止めるのも聞かず、まっすぐ保健室へ!いや、まっすぐというわけにはいかず、右へフラフラ、左へフラフラ、蛇行を繰り返しながら走った。
同時に思った。父さんは、大丈夫だろうか?母さんは、無事だろうか?それに、ユカは?
保健室の扉を勢いよく開けたとたん、不気味な冷気が噴き出してきた。本能寺先生の姿はない。しかし、部屋の奥の扉が半開きになっている。冷気の原因は、その扉の向こうにありそうだ。
「本能寺先生、いますか?」
そんな問いかけが正しいかどうかわからない。相手は、保健の先生を装った魔女なのだから。
問題の扉の向こうをのぞいてみると、そこは、赤と黒の光が水面に落とした絵の具のように渦巻く異様な空間になっていた。多少、予想はしていたものの、見たこともない世界に背筋が凍る。
本能寺先生、いや、魔女メデューサは、この先へ通ずる世界へ行ったに違いない。もしかしたら、教頭も一緒だったかも。
どこへつながっているかもわからない恐怖に足がすくんだが、勇気を出して飛び込んでみた。あの二人を止めなければ、もっと大変なことになる。
地面のなくなった感覚に、ソラは、悲鳴をあげた。体に染みついた常識から、下へと落ちる恐怖に襲われたが、それも、ほんのわずかな間だけだった。
気がつくと、ソラは、見覚えのある地上の風景の中に立っていた。それも、そのはず、なんと、そこは、ソラの自宅の真ん前だ。まだ、出勤していなかった父さんと母さんが、身の危険を感じて外へ飛び出してきていた。
「ソラ!」
突如として現れたひとり娘の無事な様子に、二人は、目の色を変えて駆け寄ってきた。
「ああ、よかった!学校へ行かなかったの?」
「え?う、うん。ううん、行ったけど、心配になって帰ってきた」
そう言うしかなかった。家のことが心配だったのは、事実だ。
けれども、保健室の奥の扉が、ソラの自宅前につながっていたとは驚きだ。それなら、魔女メデューサたちも、ここへ来たということだろうか?
いや、それは違うと、ソラは直感した。あの扉は、心の中で思い描いた場所に行ける、まさにどこでもドアなのだ。だから、無意識のうちに家のことを案じていたソラを自宅前につれてきた。となると、メデューサたちの向かった先は、別の場所ということになる。
「どうしよう。父さんも母さんも職場へ駆けつけなきゃならないけど、あなたひとり、残していけないわ。母さんと一緒に来る?」
本当は、部屋の中がメチャクチャになっている家に残りたいのは山々だが、こういう時、介護士や看護師は、自分たちを優先するわけにはいかない。
だが、その点については、ソラも同じだった。ソラは、母さんの言葉に耳を傾けながらも、知らず知らずのうちにつぶやいていた。
「わたし、行かなきゃ・・・」
「行くって、どこへ?」
「セイジのとこ。ユカちゃんが無事か確かめてくる」
たぶん、傍から見たら、今のソラの様子は、おかしかったはずだ。突然の大地震で、気が動転してしまっていると思われても仕方がなかったかもしれない。
確かに、ソラはパニックになりかけていたが、頭が狂ったわけではない。むしろ、直後に頭がおかしくなったと思わされたのは、父さんと母さんの方だった。
「おおっ、ソラよ、無事だったか!」
声が聞こえてきた方角、つまり、上空へ目を向けた面々は・・・。
「だっ、だあっ、だあああ!」
父さんが、目をむいて奇妙な声をあげた。
「ひっ、ひえぇぇぇ!」
母さんも、両手を上げた漫画のような大げさなリアクションで情けない悲鳴をあげている。
二人の視線の先には、ブリキのおもちゃを拡大したような、円盤状の物体が浮かんでいた。その窓から身を乗り出して、こちらに手を振っている、見るからにうさん臭そうなひとりの老人。
フェラーリ君に乗った老師様ほど、まともな地球人にとって異様な光景はないだろう。それを見ても驚かないソラは、すでに、まともではないのかもしれない。
「老師様、そんなとこで何やってんのよ!思いっきり、みんなから見られてるじゃない?」
思わず詰問したソラだったが、老師様は、いつもの怒ったような口調で言い返してくる。
「もう、この際、姿を隠してなどおれんのでな!それより、ソラ、わしと一緒に来てくれ。セイジのやつが、大変なのじゃ」
「えっ、セイジ?」
セイジと聞いて、ソラは、身を乗り出した。
「セイジがどうかしたの?」
「やつの家が全壊してな。おじさんとおばさんが大変なことになっているのじゃ」
ソラの全身から血の気が引いた。考える前より、先に体が動く。わけがわからないまま、あんぐりと口を開けている父さんと母さんに向かって、ソラは言った。
「えっと、細かい説明は、帰ってきてからするね」
「はあ・・・。はあ?」
「今、言ってもわからないと思うから」
「・・・・・」
当たり前だが、二人とも、目が点になっている。
浮かんでいるUFOに乗るには、たぶん、何かの映画で見たみたいに一筋の光線が降り注いできて、サッと吸いこまれるはず。と思っていたら、地味に縄ばしごが垂れ下がってきた。
「ほれ、そいつで上がってこい」
これまた、地味に老師様が言う。およそ、UFOにさらわれるといったシチュエーションとは程遠い娘の姿を、父さんと母さんは、ぽかんとした顔で見送った。
「父君殿、母君殿、ちいっとばかり、娘さんをお借りしますぞ。大丈夫、娘さんのことは、この老師様にお任せくだされ」
「はあ・・・」
さっきから「はあ」しか言わない父さんと母さんに、ソラもつけ加える。
「本当に心配しないで。わたし、パットマンだから、何があっても平気よ」
「パットマン?・・・ええっ?」
心配なのは、むしろ、父さんと母さんの方だ。フェラーリ君に乗った老師様に娘を連れ去られ、その娘は、あろうことか、話題のパットマンだという。
「あの子、わたしが生んだのよね?」
母さんが、呆けたように、となりの父さんに尋ねたのも無理はない。
「たぶん、そのはずだよ。宇宙人と入れ替わってなきゃね」
答える父さんの目も、明らかにおかしくなってしまっている。この二人、すべてが終わったら、心のケアが必要かもしれない。そんなことを考えながら、ソラは、フェラーリ君に乗り込んだ。
「すまんなあ。これ以上、おまえさんに迷惑はかけたくないと思ったんじゃが」
老師様らしからぬ、謙虚な物言い。
「ううん、ちょうどよかった。今からセイジの家に行こうと思ってたから」
初めて乗るフェラーリ君の内装は、フェラーリというには申し訳なさすぎるほど粗末なものだった。計器類は、みんなアナログだし、数も少ないし、これなら、旅客機のコクピットの方が、ずっと未来的だ。
こんなので、本当に老子様は宇宙の果てからやってきたのだろうか。丸木舟で太平洋へ乗り出していったという、かつての縄文人たちも驚くに違いない。
もっとも、どんなにポンコツであったとしても、セイジの自宅は歩いていける距離だから、到着は、あっという間だった。
そのわずかな間にソラが目を見張ったのは、地震による町の被害の惨状だ。多くの家が倒壊しているし、道路は、いたるところで陥没、もしくは、地割れによって寸断されている。火災の煙が幾筋も立ち上り、消防車や救急車、それに、パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響いていた。
そのうち、被害の全体像を把握するために上がったジェット戦闘機がやって来て、老子様は、いったん、フェラーリ君を肉眼では見えない状態にする。発見されたら、こんなガラクタ同然のUFOなんて、国籍不明の飛行物体として、ミサイルで瞬殺されてしまうだろう。
「ほれ、あそこじゃ」
老子様が指さした方向には、二階の重みに一階を押しつぶされたセイジの家があった。まさに、全壊といった感じで、そこには、救助のために駆けつけた大勢の人々と、お面ライダーに変身したセイジの姿がある。
セイジは、屋根の一部を持ち上げて、下敷きになっていたおじさんを救い出したところだった。
「セイジ!」
ソラは、セイジの自宅のすぐわきに着陸したフェラーリ君から飛び出して、一目散にセイジのもとへ駆け寄った。フェラーリ君は、一般の人間からは見えない状態になっているため、だれも、ソラがUFOから降りてきたとは思わなかっただろう。
「ソラ、来てくれたのか!」
「うん!今、老子様から話を聞いたとこ」
「まだ、おばさんが、柱の下にいるんだ。手を貸してくれるか」
セイジとユカを蔑んでいた、憎いおばさん。でも、今は、そんなことは言ってられない。
「セイジ!セイジ、無理をするな!おまえまで、巻き込まれてしまうぞ」
全身、すすとほこりだらけのおじさんが、せき込みながら、声を張り上げる。
「ああ、痛いっ!痛いようっ」
柱に足をはさまれ、まるで、子供のような悲痛な叫びをあげているおばさんは、お面ライダーが自分のもとへやって来てくれたのを見ると、涙を流して言った。
「セイジ、まさか、おまえに命を救われることになるとはねえ・・・」
おばさんの声は、かすれている。痛みに、今にも意識を失ってしまいそうだ。
「おばさん、今、こいつをどけるから。ソラ、頼むぞ!」
セイジが柱を持ち上げたとたん、硬直していたおばさんの体が、急に柔らかくなった。
同時に、ソラと駆けつけた救助隊員が力を合わせておばさんの体を引っ張り出す。
「足が折れている。ここからは、我々に任せて、無理に動かさないように」
救助隊員が担架の用意をしている短い時間、柱を持ち上げたままの姿勢でいるセイジに向かって、おばさんは言った。
「許しておくれ、わたしたちがしてきたことを。おまえがいてくれなかったら、わたしもあの人も、今ごろ、死んでいただろうよ。本当にすまなかったよ」
「いいんだよ、おばさん。それより、今はしゃべらないで。病院に着くまでは、安静にしといた方がいい」
「ああ、わかったよ。でもね、わたしは、本当におまえたちを憎んでいたわけではなかったんだよ。それだけは、わかっておくれ。ただ、気持ちの持って行き場がなくって、おまえたちを悪者にしてしまった。本当に愚かだったよ」
ソラは、そんなおばさんの言葉を聞いて、なんて身勝手なと思わないわけではなかった。
けれども、おばさんを救おうとするセイジの真剣な横顔を見ていると、そんな怒りも、もはや意味のないものに感じられ、心の中にあったわだかまりが消えていくのを覚えた。
これで、セイジとユカが辛く当たられることはなくなったという安心感に満たされてもいた。
担架が運ばれてきて、ぐったりしているおばさんの体を手際よく乗せる。おじさんの方も、救急車に乗せられたようだ。
「セイジ、ご苦労じゃったな」
走り出した救急車を見送っていると、後ろから老子様に声をかけられた。
「老子様、すいませんでした。おれ、今から他の人たちの救助活動に向かいます」
「いや、おまえさんは、おじさんとおばさんのそばにいた方がいいじゃろう。それに、妹は、どうした?」
「ユカは、社会科見学で、今日は、この町にはいないんです。だから、大丈夫です」
「いや、そんなことはないだろう。これだけの地震が起こったんじゃ。妹の方も心配じゃ」
ソラは、二人のやり取りを聞いて、いてもたってもいられなくなった。
「ユカちゃんは、どこへ行ってるの?」
「隣の県にある光学機器の工場見学。朝早く、バスで出ていった」
「それなら、わたしも、学校で行ったことがある。すごい山奥だよね?」
光学機器の工場だから、きれいな水を求めて、そんな場所に作られたのだろう。たしかに、工場までは直線距離でも百キロ以上あるから、こことは、少し状況が違うかもしれない。
が、その時、どこからともなく女の声が伝わってきた。
「聞いているか、パットマン」
「・・・・・!」
パットマンという言葉に、ソラは素早く反応した。女の声は、耳で聞いたというよりは、直接、頭の中に入ってきたという感じだ。
「聞いているだろう」
ソラは、老師様と顔を見合わせた。セイジとも見合わせた。
「わたし、今、パットマンに変身してないけど、なぜか、声が聞こえる。これって、幻聴?」
「いいや、そうではないぞ。わしの耳にも聞こえるのじゃからな。セイジ、おまえもじゃろう?」
「はい」
つまり、何者かがテレパシーのようなものを使って話しかけてきたということだ。相手は、名乗らなくてもわかる。
「本能寺先生ですか?」
ソラは、見えない相手に向かって問いかけた。
「それは、人間の姿でいる時の仮の名だ。おまえは、わたしがだれであるかを知っているはずだ」
ソラは、混乱した。この声は、本能寺先生であって、本能寺先生ではない。何百年にも渡って溶けたことのない氷山のように、他者を寄せつけない残忍で冷たい怒りに満ちていて、老師様の言う通り本物の魔女のようだ。
「よいか、これからは、わたしの邪魔はしないと約束してもらおう。でなければ、人質の命は、保証できぬぞ」
「人質?」
「おまえが、今、いちばん気になっている人間のことだ」
魔女メデューサは、そう言うと、何もかも見越したように低く笑った。
「お面ライダーの妹の命、ここで、失いたくはなかろう?」
ソラの瞳に、思わず殺気が走った。
「まさか・・・」
「そうだ、この娘の命は、わたしが預かっている。助けたければ、取り返しに来ることだ」
「!」
ソラは、まるで荒れ狂うマグマのようなものが、全身の隅々にまで行き渡るのを覚えた。大切なものが失われようとしている恐怖と反動の怒りが、炎となって体の表面に噴き出してくる。
しかし、それ以上に大きくソラの中で渦巻いているのは、なんとしてもユカを救い出したいという慈しみの心だ。
「セイジ・・・」
ソラは、わなわなと肩を震わせながら、青ざめているセイジの顔を振り返った。お面をかぶっているから青ざめているかどうかわからないはずなのに、ソラの目には、はっきりとセイジのひきつった表情が見えた。
「老師様、わたし、行きます!」
「いや待て。これは、メデューサの罠じゃ。あやつは、おまえさんを殺そうとしている。あやつの目的の最大の障害は、お面ライダーではなく、パットマンじゃからの」
「でも、このままじゃ、ユカちゃんが!」
そう叫んだとたん、そんなソラの不安に追い打ちをかけるように、今度は、メデューサとは別の声が聞こえてきた。間違いない、ユカの声だ。
同時に、声だけでなく、映像までがソラの脳裏に浮かんできた。その情景に、思わず息をのんだ。
ユカや子供たちを乗せたバスが、岩の上に乗り上げている。いや、乗り上げているのではない、乗せられているのだ。それも、巨大な手のひらの上に。
手のひらの持ち主は、山のような岩でできた人の形をしていた。その信じられないほどの大きさに、ソラもセイジも、「あっ」と声をあげる。
「怖いよう~っ、お母さん!」
子供たちの泣き声が、はっきりと聞こえてきた。どの子供も泣いている。あろうことか、運転手と引率の先生の方が、先に気を失ってしまっていた。
ただひとり、ユカだけが、泣くことも気絶することもなく恐怖に耐えている。
「みんな、泣かないで。必ずパットマンが助けに来てくれるから!」
ユカは、歩けないはずの足で立ち上がり、ひとりひとりのクラスメイトに声を掛けている。座席につかまりながら、ゆっくりと、けれども、確実に歩みを進めていった。
「だって、パットマンは、どこかへ行っちゃったじゃないか」
「そうだよ、もう、パットマンは、わたしたちを助けには来てくれないんだよ」
泣きながら、子供たちが言い返す。それでも、ユカは、あきらめなかった。
「そんなことない!パットマンは、きっと来る。ソラちゃんは、来てくれるよ!」
けれども、そんな強気の言葉の裏にあるユカの本当の気持ちが、今のソラには、はっきりと読み取れた。
「お母さん!」
ユカの心は、そう叫んで泣いていた。とめどなく流れる涙が、彼女の全身を濡らし、命そのものを溶かしてしまうかのようだった。
「お母さんっ!」
これが、本当のユカなのだ。まるで、母鳥を求めて必死に鳴く雛鳥そっくりだ。
(・・・当り前じゃないか)
ソラは、頭を殴られたような衝撃を受けた。こんなこと、当たり前すぎて、そこに思いを寄せられなかった自分が、ほとほと情けなくなってくる。
ユカは、年端も行かない小さな女の子なのだ。そんな子供が、両親と死に別れてしまって、どんなに辛いことか。どんなに泣きたいことか。ユカは、だれにも弱音を吐かず、ずっとずっと、温かな両親の胸に抱きつくことのできない苦しみに耐えてきたのだ。
(そんなの、そんなの・・・)
ソラは、思わず両手で顔を覆った。わたしは、なんて、バカなんだ。どうして、こんなことに気がつかなかったんだ!
「お母さん、助けて!」
もう一度、ユカの叫びを聞いた瞬間、ソラの中で何かがはじけた。考えるまでもなく、変身ベルトのスイッチを押し、腰に巻きつける。
「待て、ソラ!」
セイジが叫んだ。
「行っちゃあいけない!行ったら、殺されるぞ!」
「セイジの言う通りじゃ。あの巨人は、メデューサのとっておきじゃ。パットマンと言えども、一筋縄でいくような相手ではないぞ」
老師様も、何とか説得しようとする。しかし、ソラの決意は固かった。
「老師様、わたし行きます。メデューサは、わたしの命が欲しいんでしょ?だったら、わたしが行くしかない!」
「いや、それなら、おれが行く!お面ライダーの力があれば、あいつを倒せなくても、ユカのバスを救い出すくらいはできるかもしれない」
セイジも言い張ったが、これには、老師様が首を横に振った。
「残念じゃが、それは無理じゃ。もはや、わしの作った変身ベルトでは、メデューサの力は抑えきれん。返り討ちにあうのが落ちじゃ」
「そんな・・・」
セイジが、よろけながら後ずさる。
「じゃあ、どうすれば・・・」
老師様は、一瞬の間の後、ソラに向き直っておもむろに口を開いた。
「やむを得ん。ソラよ。こんなことに巻き込んで、誠に申し訳なく思うが、最後のひと働き、引き受けてもらえるかの?」
この言葉に、ソラは、間伐入れずに答えた。
「もちろん!」
言うが早いか、すぐさま変身ポーズをとる。ポーズをとった途端、「そうだっけ。これ、やらなくてもいいんだっけ」と、思い出した。が、振り上げた腕を、今さら引っ込めるわけにもいかない。
「変身!」
たぶん、この時の変身ポーズが、いちばん決まっていたと自分でも思う。ソラは、パットマンの姿を心に念じて、大きくモーションを取った。
ところが!
「・・・あれ?」
思わず、目をぱちくりさせる。
「これ、どういうこと・・・?」
ソラは、自分の体を見下ろした。そして、その姿に呆然とした。だって、何も変わってない。変身してない。ただの女子中学生のままだ!
「どうして?どうして、変身できないの?」
せめて、翼を持った天使の姿なら、現地まで羽ばたいていくことができたかもしれない。けれども、セーラー服を着た見慣れた女子中学生のままでは、空を飛ぶことすらできない。
「どうしよう、老師様!わたし、変身できなくなっちゃった!」
「落ち着け、ソラ。落ち着くのじゃ」
半べそ状態のソラを、老師様は、必死になだめる。
「わたしが、パットマンになんかならないって言ったから、こんなことになっちゃったのかしら?変身ベルト、怒っちゃったのかなあ?」
「そんなことはない。おまえさんは、ちゃんと、変身しとるよ。変身ベルトが無くなってるじゃろが」
「え?」
そう言われてみれば、確かにお腹の変身ベルトが見当たらない。ついさっきまであったはずなのに、これは、いったい・・・。
「それが、最終形態というわけじゃよ。おまえさんの最強モードじゃ」
「これが?わたし、このままの姿で戦うの?」
一瞬、唖然とさせられたが、そこで気づいた。
何だろう?静かではあるが、地鳴りのような低い音が、足もとから放たれている。それに伴い、陽炎のように揺れる空気が、周囲の景色をわずかにゆがんで見せた。
ソラは、パットマンの時とは比較にならないほどのとてつもない力が、地の底から全身を通してあふれ出てくるのを感じた。それなのに、心の中は、天使の姿の時のように、青く澄み切っている。
「まったく、おまえさんには驚かされる。よいか、ソラ。今のおまえさんは、ベルトそのものとなって己の中にある無限の力を引き出した。そこのところをわきまえるのじゃぞ。感情に任せて力を入れすぎると、地球ごとひっくり返ってしまうかもしれんのでな」
「わかった。力任せにやってどうなるかは、パットマンの時でこりているもの」
「くれぐれも、そおっとじゃぞ。そおっと、飛ぶのじゃ」
「うん、そおっと飛ぶよ」
ソラは、お面ライダーのまま、驚いているセイジを振り返った。
「大丈夫。すぐにユカちゃんを連れてくるからね」
「あ、ああ・・・」
本当は、自分自身が助けに行きたいところだろうが、今のソラの圧倒的なパワーの前には、ただうなずくしかない。
「頼んだよ、ソラ」
「うん、任せといて!」
ユカを死なせはしない!死なせてなるものか!
ソラは、心を静めて「浮け」と、自分自身に語り掛けた。パットマンになって、初めて空を飛んだ時と同じように。そして、一言。
「飛べ!」
ちょっと、力が入ってしまったかもしれない。ソラの頭の先から広がった衝撃波は、セイジのお面ライダーを十メートル以上後退させ、老師様を木の葉のように吹き飛ばした。
「うわっ、やっちゃった!」
そう反省したところで、もう遅い。ドーンッという爆音とともに、ソラは、雲の上まで一気に飛び上がった。そして、水平飛行に移る。大気を切り裂くというのは、まさにこのことだと言わんばかりに、二度目の衝撃波が大地を震わせた。
「ろ、老師様、大丈夫ですか?」
「あいたたっ。じゃから、そおっとって言うたじゃろうが!」
セイジに助け起こされながら、老師様が、がなり声をあげた。けれども、その顔は、少しばかり笑っているようにも見える。
「ソラ、頼んだぞ」
セイジと老師様の思いが、ひとつとなってソラの背中を後押しした。
時は来た!いよいよ、魔女メデューサとの最終決戦だ。