第六章

「フィリピンの東の沖合で発生した台風二十一号は、その後、猛烈な勢力となって北上、今日の午後には、東海から関東にかけての沿岸部に上陸する見込みです。中心部分の気圧は、八百七十五ヘクトパスカル。中心付近の最大瞬間風速は七十メートルにも達しており、気象庁は、厳重な警戒を呼び掛けています。台風が接近している東海地方では、すでに一時間に五十ミリを超える記録的な大雨となっており・・・」

ただでさえ憂鬱な月曜日の朝だというのに、朝のワイドショーが、今にも世界の終わりがやってきそうな不穏な天気予報を伝えている。

テレビ画面には、今にもあふれ出しそうになっている河川の様子や、港に係留されている漁船が上下左右に揺さぶられる映像が、繰り返し映し出されている。

「ちょっと、ありえないくらいの台風よねえ。これも温暖化の影響なのかしら?」

「スーパー台風ってやつだな。この勢力のまま上陸されたら、たいていの建物は、吹き飛んでしまうんじゃないか?」

珍しく出勤時間が重なっている母さんと父さんが、慌ただしい朝食をとりながらも、食い入るようにテレビ画面に注目している。

同じテーブルで、今日も元気にご飯をかきこんでいるソラも、窓をたたきつける激しい雨音に耳を傾けながら、学校にたどり着くまでに、靴も靴下もビショビショになっちゃいそうだと心配になっている。

いやいや、靴や靴下の心配をしているレベルではなかった。この台風二十一号は、ほとんど怪獣のようなもので、こんなのがまともにやってきたら、かつてない大災害となってしまうだろう。

これは、当然、パットマン出動の事態であって、ソラは、一見、のんきに朝食をとっているように見せてはいるが、心の中は、早くパットマンに変身したくて、うずうずしていた。まずは、朝ごはんをがっつり食べることが先決だけど。

それにしても、この台風、明らかに様子がおかしい。進路もどこか不自然で、まるでソラが住んでいる町を一直線に目指しているかのようである。

最大瞬間風速七十メートルというのは、父さんが言う通り、地上にあるあらゆる建造物をなぎ倒してしまうほどの突風だ。大型トラックだって横転するし、人間なんて立ってもいられないだろう。

その時、テーブルの上に置いてあった母さんのスマホのアラームが鳴った。画面をのぞきこんだ母さんが、少し戸惑ったような顔をする。

「ソラ、今日、休校だって」

「うそ?やったあ!」

「何が『やったあ!』よ。あなたをひとりで家に置いておく方が、母さん、よほど心配だわ」

「あらかじめ、避難所に行く?避難所って、中学校だけど」

父さんも、母さんに合わせたように言う。

いやいや、心配ご無用。せっかく、学校が休みだというのに、どうして、わざわざ登校しなきゃならないわけ?

「大丈夫よ。家にだれもいなくなっちゃう方が不安だし、いざとなったら、自分ひとりで学校行けるから」

「その時は、もう、外には出られない状況なんじゃない?」

母さんが心配顔をするのももっともで、風速七十メートルの世界を、ひ弱な女子中学生が歩き続けるのは無理だろう。ソラが、ただのひ弱な女子中学生ならの話ではあるが。

「何かあったら、電話するよ。家にいた方が落ち着いていられるし、食べる物もあるし」

「そう?まあ、確かに非常食とかも用意してはあるけど」

「中学校の冷たい体育館の床に座って、インスタントの非常食を食べてるよりは、いいでしょ?」

我ながら、もっともな言い訳だ。

事実、避難所というのは、あくまでも仮のものであって、中学校の体育館などは、もともと避難民を受け入れるために作られたものではない。テレビなどでは、早めの非難を促すが、固く冷たい床とわずかな非常食では、持病持ちのお年寄りなどは、かえって体調を崩しかねないのだ。

それに、何と言っても、避難所では人目が多すぎる。パットマンに変身するのが難しい。

「とにかく、少しでも何かあったら、遠慮せずに電話するのよ」

「父さんの方でもいいぞ。今日は、なるべく早く帰宅するようにするからな」

母さんと父さんは、娘のことを気遣いながらも、それぞれの職場へと出勤していった。病院と介護施設だから、こういう時こそ、職場を留守にするわけにはいかない。医療従事者に課せられた宿命というやつだ。

が、ソラにとっては好都合。早速、変身ベルトの通信機能を使って老師様に連絡を取る。

「おや、アラームが鳴る前から出動態勢に入っているとは感心じゃな」

「何言ってるのよ?とんでもない台風がすぐそこまで来てるっていうのに。今からわたしの家に来て。いつものように代役をしてもらわなきゃならないんだから」

そう言って通信を切った直後、玄関のチャイムが鳴った。だれだろうと不審に思いながらドアを開けると、驚いたことに老師様が立っている。

「いつからそこにいたの?」

「昨夜からじゃ。この家の真上にフェラーリ君が浮かんどるよ。見えないようにしとるだけでな」

思わず玄関の天井を見上げてから、ぷいっと口をとがらせる。

「もう、それなら早く言ってよ。この台風、魔女メデューサの仕業なんでしょ?」

「おお、勘が良いな。説明しなければ、わからんだろうと思っとったがな」

「そんなの、いくら何でもわかるよ。この町を一直線に目指してくる台風なんて、いかにもって感じじゃない」

ソラは、老師様をダイニングルームに上げると、まずは念を押した。

「いい?父さんや母さんから電話がかかってきたら、うまく対応するのよ。それから、冷蔵庫の中のものを食べるのはダメ。それと、わたしの部屋に入るのも絶対にダメだからね。げっ!」

言ってるうちから、冷蔵庫の中にある父さんの缶ビールを取り出して、プシュッとタブを開けている老師様。

「いやあ、地球で一番うまいのは、これじゃな。なんか、つまみはないのか?」

「・・・・・」

やっぱり、老師様を家に呼んだのは間違いだったかもしれないと後悔しつつ、今となっては後の祭りである。

「人の家に上がり込んで、何がつまみよ!それより、セイジは?」

「あやつは、おとなしく家で待機しとるよ。今日は、休校なんじゃろ?家にいなきゃ、身内から怪しがられるし、妹もおるしな」

「ユカちゃん、こわがってないかしら?」

「おお、あのおチビさんは、よい子じゃな。おまえさんとは違って」

おまえさんとは違っては余分だが、ユカちゃんの愛らしさは、老師様もわかっているみたい。

「わたし、すぐにパットマンになって出かけてくるね。ああ、台風を丸ごと押し返せたらいいのに」

「無茶なこと言うな。もっとも、パワーそのものは、台風を押し返しても余りあるほどじゃがな」

「そんなに?」

「そうじゃよ。じゃが、力だけではどうにもならんこともある。地震の次は台風か。メデューサのやつ、ようやるわい」

「感心してる場合じゃないでしょ?事件の黒幕は、本当に本能寺先生なの?ちっとも、信じられないんだけど」

そう言いながら、変身ベルトを腰に巻いて、かっこよく「へんし~ん!」のポーズを決める。この「へんし~ん!」も、だいぶ板についてきたようだ。

「フハハハハ!呼ばれて飛び出て、パットマン参上!」

思わず決めゼリフを叫んじゃってから、はたと思い直す。

「あれ?これって、コントロールできなかったころのパットマンが言ってたやつだよね?今は、わざわざ、言わなくてもいいんじゃない?」

そうソラが質問すると、老師様は、一本目の缶ビールを空にしてから、のんきに言った。

「そうじゃよ。ちなみに変身ポーズもいらんよ。赤いボタンを押せば、勝手にパットマンになるから」

酔いが回り始めているのか、老師様が上機嫌で答えた。うっかり、口を滑らせたという方が正しいかもしれない。

「なあんだ、変身ポーズなんてしなくてよかったんだ?って、なんだとお!」

もう、ホントにあきれた!わたしったら、こんなインチキじじいの口車に乗せられて、何回、あの恥ずかしい変身ポーズを繰り返してきたことか!

台風が片づいたら、フェラーリ君ごと、このへっぼこ宇宙人を銀河の彼方へ投げ飛ばしてやる!

「まあ、そう怒るな。これも、お愛嬌じゃ。ほれ、そろそろ風が強くなってきたぞい。パットマンの出動じゃ」

「そうやって、すぐ話をそらすんだから」

そう文句を言いつつも、確かに風は勢いを増し、電線がヒュルルルル~と不気味な音を立てている。その風にあおられて、雨が激しく窓をたたきつける。

ソラは、そうっと玄関のドアを開けて、だれにも見られていないことを確かめてから、「じゃあ、あとよろしくね」と老師様に言い残し空へと飛び立った。

いきなり突風が吹いてきて、背中のマントがバタバタと音を立てる。普段の感覚で、なんとなくよろけそうになったが、パットマンに変身している今、地球上の風ごときは問題にすらならなかった。

上空から眺める地上は、一面グレーに沈んでいて、朝だというのに車のヘッドライトが幹線道路に沿って川のように流れている。

まだ、台風がやってくるのはこれからだというのに、大小関わらず河川は茶色く濁り、かなり水位が上がっていた。これでは、水があふれだすのも、時間の問題だ。

「ソラよ、聞こえるか?」

突然、老師様から通信が入った。

「聞こえるよ。何、老師様?」

「そこから沖合を目指すのじゃ。台風の中心に向かって飛べ。そこに見てもらいたいものがあるはずじゃ」

「見てもらいたいもの?」

「行けばわかる」

ソラは、老師様に促されるまま、沖合に進路をとった。

海面は、狂ったように逆巻いていたが、上空に立ち込めた雷雲と霧のせいで、はっきりと見ることはできなかった。レーダーでもなければ、自分がどちらに向かっているのかもわからない状況である。

けれども、ソラには、不思議と行先がわかっていた。これも、パットマンの能力のおかげかもしれない。雨粒が弾丸のような勢いで顔にあたっているにもかかわらず、痛みなど、これっぼっちも感じない。

目的地までは、十分とかからなかった。スピードで言ったら、ジェット戦闘機か、それ以上だろう。

やがて、ソラの目に、信じられないような光景が飛び込んできた。

これだけの巨大台風だから、中心には、はっきりとした目があって、もしかしたら、太陽が見えるかもしれないとソラは思っていた。

しかし、どこまで行ってもそんなものは現れず、代わりにソラを待ち構えていたのは、どんな絵具でもこれほど黒くは塗れないと思われるほどの真っ暗な円形状の空間だった。

(何これ?もしかして、ブラックホール?)

 小型のブラックホールを兵器として利用する話なら、SF小説で読んだことがある。敵の宇宙船の近くにブラックホールを発生させて吸いこんでしまうというやつだ。

けれども、今、ソラの目の前にあるものは、ブラックホールにしては吸い込む力が弱いし、中心には、得体の知れない小さな光の点が見える。

その青白い光に近づいてみると、なんと、それは、水晶玉のような球体だった。直径は、せいぜい五、六メートルと言ったところか?

「老師様、今、わたしが見てるもの、そっちでも見える?」

ソラが通信を送ると、即座に老師様の声が帰ってきた。

「おお、見えとるぞい。そいつが、おまえさんに見せたかったものじゃ」

「何なの?この気味の悪い球体」

「それは、重力兵器の分身じゃ。そいつを使えば、地震でも台風でも、自由に引きおこせるという厄介なものじゃ」

「じゃあ、これを壊しちゃえば、台風が治まるのね?案外、簡単なことじゃない?」

「それはどうかな?試しに、そいつをぶっ壊してみい。パンチじゃ、パンチ。パットマンパ~ンチ!」

相変わらずの老師様のふざけた口調ではあったが、ソラは、さっそく実行に移すことにした。もっとも、思いっきりこぶしでたたくと、こっちの手が痛そうなので、まずは、軽く、優しく。

「えいっ」

ちょっと怖かったけど、やんわりとしたパンチを繰り出した。もしかしたら、これは、ソラにとって、人生初のパンチだったかもしれない。

ところが、効果は絶大。パットマンの繰り出すパンチは、一撃で水晶玉を打ち砕き、まさに、木っ端微塵にしてしまった。あまりの呆気なさに、ソラの方が戸惑ったくらいだ。

「・・・信じられない。風船を割るより簡単だった」

とはいえ、ここで、すぐに気づく。

「でも、何も変わらない。台風、治まりそうにない」

「わかったじゃろ?原因となっている重力兵器は壊せるが、一度大きくなってしまった台風を静めることはできない。地震の場合も、同じじゃ」

「じゃあ、重力兵器を使う前に食い止めなきゃならないってこと?」

「そういうことになるが、いつどこで、メデューサたちが重力兵器を使うかなんて、予測できぬからのう。そこが、厄介なのじゃ」

つまり、テロと同じである。相手が警戒する前に、想像もつかない形で攻撃する。通り魔とか強盗にも例えられるかもしれない。

「なんて卑怯な!」

「それが、メデューサのやり方なのじゃ。前にも言ったが、あやつには、正規の軍事力はないからのう。わしらからしたら、ナイフを使った軽犯罪のようなレベルじゃが、地球人にとっては、存亡の危機に関わることとなる」

これが、科学力の差というやつだろうか?そう言えば、南米のインカ帝国は、マスケット銃を持ったわずかなスペイン人たちによって滅ぼされたと何かの本で読んだことがある。

「わたし、すぐに引き返さなきゃ。こんな台風がまともに上陸したら、大変なことになっちゃう」

ソラは、巡航速度だった行きの倍はあるスピードでトンボ返りしたが、このわずかな時間の間に、事態は、一層深刻さを増していた。

ソラの住む地域には、川幅二十メートルくらいの二級河川が流れているが、まず、その川が、カーブとなった数か所で決壊していた。流れ出した泥水が濁流となって町を飲みこんでいく。

いかにパットマンと言えども、あふれ出した水を元通りにすることはできない。どんなに力があっても、それだけでは役に立たないこともあるのだ。

「大変!」

ソラは、川となった道路上で立ち往生している自動車から、閉じ込められていた母親と娘を助け出した。

窮地を救ってもらった親子は、まさかのパットマンの登場に、涙を流して感謝の言葉を述べている。先日の地震の時と同じである。

「さあ、ここは危険だから、早く安全な場所に。あっ、あそこにおまわりさんがいる!おーい!」

浸水した場所から少しだけ離れた路上で避難誘導をしていた警察官を見つけて、ソラは、声を張り上げた。

「すいません、こちらの親子を沈みかけていた車から救い出しました。後をよろしく!」

「き、君は、パットマン!」

驚く警察官に親子を預けて、ソラは、すぐさま次の救助に向かった。今度は急激な増水によって、自宅の屋根に取り残された家族だ。若い夫婦と幼い息子。しかも、母親は、胸に赤ん坊を抱いている。

逃げ遅れたこの四人家族は、何と二階の天井をくり抜いて屋根上へと登ってきたらしい。ますます激しくなる雨風に打たれながら、死の恐怖を抱いていたところだった。

「落ち着いて!今、すぐに助けますから」

「あっ、パットマンだ!」

まるで神様でも仰ぐような目で夫婦から手を合わせられて、ソラは、ちょっと面食らった。

でも、窮地に立たされていたこの家族にとっては、自分が神様並みにありがたい存在になっているのだと思うと、決して悪い気はしない。

「時間がない。全員、一度に救助しないと。あれを使おうか?」

ソラは、強風に飛ばされて街路樹に引っかかっている不動産の看板を取ってきて、その上に乗るよう家族に伝えた。

「いいですか?風にあおられないよう、姿勢を低くしてください。このまま運びますからね」

どんなにすさまじい風が吹きつけようが、パットマンの持つ看板は、揺れることすらなかった。乗っている四人が怖がらないよう、ゆっくりと飛びながら、やはり、近くで救助活動にあたっていた警察官に一家を託す。

「みんな、体が冷え切っているので、後の処置をお願いします。わたしは、次の救助に向かいますから」

「なっ、なんと、パットマン?」

とにかく、だれもがパットマンを見て、驚きの声を上げてくれる。ソラは、先日の地震の時と同様、だんだん得意になってきた。

今さらではあるが、老師様からもらった変身ベルトは、本当にすごい。信じられないほどの圧倒的なパワー。どんなに離れた場所にも、瞬く間に到着してしまう驚異のスピード。

この変身ベルトさえあれば、ソラは、スーパーヒーローでいられる。みんなから喜ばれ、拍手を浴びて自分も気分がいい。

「さあ、どんどん、お仕事するわよぉ!」

絶好調のソラは、その後も次々と人命救助を成し遂げ、前代未聞の最強台風が押し寄せているというのに、人的被害は、今のところ皆無に近かった。

時間の経過が、驚くほど速く感じられる。実際には、すでに夕方で、パットマンに変身してから九時間近くが経っていた。

当然、台風は移動しているわけだから、ソラもそれに合わせて最も危険な場所に身を置いて活動している。

けれども、日本本土に上陸してからは、さすがのスーパー台風の勢力もしだいに落ち始め、その中心は、太平洋上へと離れつつあった。

ただし、災害は、雨風のピークが過ぎ去った後に起こることがしばしばある。

ソラは、自分たちの住む町が気になって、再び引き返すことにした。引き返すのだって、あっという間。パットマンの力をもってすれば、日本全土を合わせても庭先くらいにしか感じられない。

と、その時、見慣れた人影がソラの目に飛び込んできた。

「あれって、もしかして由衣?」

今まで目にしてきた警察官や水防団員は、どの地域でも男ばかりだったから、決壊しそうな堤防のそばで土嚢積みを手伝っている少女の姿に驚かされた。

「な、なんで、由衣があんなところで?となりにいるのは、もしかしてお父さん?」

ソラは、由衣の自慢の父親の顔をあまり見たことがない。由衣とのつき合いは、それなりに長かったが、自然保護官の父親が自宅にいることは少なかったからだ。

それでも、一見して親子とわかるような距離感で二人は作業に没頭しているし、周囲もそこに違和感を感じていないみたいだから、やはり、あれは由衣の父親なのだろう。

想像していたよりも若く見えるが、接近するにつれて、なんだか怒っているみたいだ。怒っているというより、叱っていると言った方が正しいだろうか?もちろん、となりにいる由衣を。

「もう、ここは危ないから、おまえは母さんのところへ行きなさい!」

「いやだよ!少しでも人出が多くないと、この堤防、崩れちゃうよ!」

「おまえひとりがいたところで、何も変わらない。早く行くんだ!」

あんなにも感情をむき出しにしている由衣を、ソラは、初めて見た。

由衣は、頭もいいし人柄も温厚で、ソラからしたら、文句のつけようがないできた人間だ。

そんな由衣が鬼のような形相で父親に口答えしている姿は、ソラに理由のない不安を抱かせた。それだけ、事態がひっ迫しているということだ。

二人は、言い合いをしながらも、その手を休めようとはしない。しかし、上空から見ているソラには、はっきりとわかる。もう、人間の手で抑えるには、あまりにも、濁流の勢いが強すぎるということが。

「みんな、そこから離れて!決壊、防げないから!」

ソラには、見えていたのだ。はるか上流から津波のように押し寄せてくる土石流が!

このままでは、由衣が巻き込まれる!

老師様から変身ベルトをもらい、パットマンとして活躍するようになってから、初めての恐怖をソラは覚えた。

「お願いだから早く!土石流が来てるんだから!」

ソラは、両手でメガホンを作って大声を張り上げたが、滝のような雨音が邪魔をして、由衣たちには届かない。

まずい!本当にまずい!

今から逃げたとしても間に合わないと判断したソラは、土石流の先端に向かって突進した。

(由衣が死んじゃう!由衣が死んじゃうよ!)

いくらパットマンと言えども、流れる水を一瞬で止められる魔法が使えるわけではない。あんな勢いのある泥水を食い止めるとしたら・・・、そうだ!その手があった!

ソラは、水と一緒にごろごろと転がる巨大な岩を見て思いついたのだ。もっと、大きな岩を土石流の前に置けば、ダムの役割を果たしてくれるはずだ。

ソラは、近くにそびえる山々を見下ろして、土砂崩れによって岩肌がむき出しになっている個所を探した。同じようなところが、あっちにもこっちにもある。山体崩壊というニュースで語られていた言葉が、頭をよぎった。

ソラは、そのうちのひとつに目をつけると、小山のような巨大な岩石にはりついて、すべての力を両腕に込めた。

「ぬおおおお!」

雷名のような、パットマンの雄叫びが響き渡る。その大音声は、地を揺るがす衝撃波となって、由衣たちの耳にも届いた。

土嚢積みに没頭していた人々が、何事かと青ざめた顔を上げる。雄叫びのした方向に瞳を凝らしてみても、濃い霧に阻まれて、何も見ることはできない。

が、そこに、空に浮かぶ小惑星が、突如として現れた。

そう、小惑星というのが、いちばん近いだろう。パットマンが持ち上げている岩石は、野球場を二つ並べたほどの大きさをしていた。

これだけ大きければ、確実に土石流を防げると、ソラは、無意識のうちに結論づけていた。とにかく、由衣だけは、何としても守らなければならない。ただ、その一点だけを考えての結論だった。

土石流は、驚くほどのスピードで、今や由衣たちの上流五百メートルくらいのところまで迫っている。その段階になって、地上の人々は、ようやく自分たちの置かれている状況に気づいた。

「に、逃げろーっ!」

どうして逃げなければならないのか、理由を考える余裕さえなかった。まるで龍のように暴れる巨大な泥水の波を見た瞬間、人々は、てんでばらばらに走り出した。

しかし、どう見ても間に合わない。気づくのが遅すぎたのだ。

ソラは、細かいことに気を捕らわれている場合ではないと判断し、持ち上げていた岩石を土石流の先端めがけて投げおろした。

岩石が地上に落下した途端、聞いたこともないような轟音が円を描いて広がった。同時に体が浮き上がるほどの衝撃が襲いかかる。

「ギャッ!」

短い悲鳴をあげて、地上にいた誰もが地面に倒れ伏した。まるで、ミサイルの直撃を受けたかのようなありさまだ。

それでも、土石流に飲まれるよりはいい。ソラは、そう思った。

ところが。

「うそ・・・、土石流、止まらない・・・」

本来なら、小さな子供でもわかる話だった。巨大な岩でせき止めようとしても、水は、岩をよけて流れるだけだ。むしろ、川に沿って流れた方が、周辺に対する被害は、最小限に抑えられる。

パットマンの投げた岩石にぶち当たった土石流は、当然のごとく、そのわきへと進路を変え、そこにあった家々を、あっという間に飲みこんでいった。あらゆる建造物が、まるで紙屑のようにぺしゃんこになっていく。

普段、自分たちの生活を守ってくれている家々が、こんなにも簡単に圧壊していく様を、ソラは初めて見た。思わず、悲鳴が漏れる。

「キャアアア!」

ソラは、全身を震わせながら、濁流に飲み込まれていく人々を片っ端から拾い上げ、安全な場所まで運んだ。だが、相手は大勢だ。一度に助けるには、無理がある。

(どうしようっ、どうしようっ!)

悪気はないのに、小さな子供を自転車ではねて、大けがをさせてしまったような心境だった。

(どうしよう!わたし、とんでもないことをしちゃった!)

パニックとなった状態で、ソラは、いちばん大切なことを思い出した。

「由衣っ!」

由衣を助けようとしたはずなのに、なぜ、彼女を後回しにしたのだろう?

由衣は、他の水防団員と同じように、いったんは濁流に飲まれたが、すぐに岸へと打ち上げられていた。そのわきに倒れている男の人の姿が見える。

「お父さん!」

仰向けになって倒れている父親にすがりついて、由衣が泣き叫んでいた。

「由衣・・・」

その傍らに降り立ったソラの口からもれた言葉は、実際には、声になっていなかった。

由衣のお父さんは、右の足を抱えて、苦しそうにうめいている。泥にまみれた姿で歯を食いしばり、ひたすら痛みに耐えている。

ソラの意識が遠くなった。

(ああダメ。わたし、気絶しちゃあ、だめ・・・)

懸命に目を見開こうとしたが、すべては無駄だった。ソラは、目の前が真っ暗になるのを感じた。

どこかで、老師様の呼ぶ声が聞こえる。その記憶を最後に、ソラの思念は闇の中に落ち、後は何もわからなくなった。