1.発端

南からの強い風を受けて、海面に白波が立っていた。

おそらく魚の群れがいるのだろう、ミャオミャオと猫のように鳴きながら、海鳥たちが海岸線を飛んでいる。

沖合いにある、通称「狐島」と呼ばれる岩山のシルエットも、水平線の向こうにわきあがる積乱雲も、ここでは、なじみ深い日常の光景だった。

早朝には、大小さまざまな漁船が大海原いっぱいにひろがり、水面下に見える黒いしみのような獲物の群れを追いかける。

漁船の母港があるのは、太平洋に面した古くからの港町である。地図には、大河内町と記されている。

町の東の外れに位置する淀川を境に、となりの米倉市と分断された、東西に長く南北に短いこの地域には、およそ二万人の人々が生活をしているが、そのほとんどが、先祖の代からここに住み着いてきた地元民である。

海と山にはさまれた閉鎖的な町だから、高度成長期にできあがった淀川沿いの工業団地がひっそりと横たわっている以外に、これといった産業はなく、町民の多くは、米倉市やそのまた先の町まで、JRの滝沢線にゆられ、あるいは、国道七八七号線の渋滞をがまんしながら、通勤しなければならない。

大河内町駅から海に向かう道は、駅前通りと呼ばれていて、途中にある町役場と駅にはさまれた土地には、古くからの商店街が広がっている。駅前通り商店街である。

この駅前通り商店街から、港の方角に下った先で交差しているけやき通りにも、数十軒の商店がならんでいるが、こちらは、けやき通り商店街と呼ばれていた。

どちらの商店街も、閉鎖された店舗が点々と軒をつらねる、いわゆる「シャッター街」である。

内藤作蔵の息子、義男が経営するナイトウ洋菓子店は、このけやき通り商店街の一画にあった。

 

「ありがとうございました。また、おこしください」

洋菓子の入った箱を手に下げて、笑顔で店を出て行く親子づれを笑顔で見送りながら、愛想のいい黄色い声がひびく。

作蔵の孫娘である佐和子は、肩まで伸ばした黒髪に清楚な笑顔が似あう、ナイトウ洋菓子店の看板娘である。もっとも、彼女は、現役の女子大生で、大河内町からJRで四つ目の駅まで、毎日、電車で通学している。

今日は、日曜日で講義もないから、店の手伝いをしているが、実際、気立てのいい佐和子が店番をする日は、自然と菓子の売上が伸びていく。

父の義男も母の鈴子も、この優秀な長女のことが自慢で、娘のてきぱきとした仕事ぶりにまんざらでもない。

「おじいちゃんたち、今ごろ、気勢を上げているかしら?」

客から受け取った代金をレジにおさめながら、佐和子が言った。調理場にいた義男が、ボールの中の生クリームをかきまぜる手を休めて、ギョロッとした大きな目を、さらに見開いた。

「地域の平和を守るため、センチュリーWADAの侵略には、徹底抗戦だあ!」

それを聞いた鈴子は、流しで洗いものをしながら、あきれ顔である。

「バカなこと、言ってる場合じゃないでしょ!抗議集会には、健二も出てるんですからね。何かあったら、どうするつもり?」

義男の言ったセンチュリーWADAとは、半年前から大河内町に出店を計画している、巨大なショッピングセンターのことである。

出店の話が持ち上がったのは、あまりにも唐突だった。

大河内町には、かつて、淀川沿いの工業団地とならんで、もうひとつの工業施設があった。

鉄鋼業を営んでいた、この工場が三年前に閉鎖すると、その跡地の整備は遅れに遅れ、町のまん中に廃墟となったプラントが放置されるというありさまになった。

だれも人が寄りつかなくなったそれは、やがて「おばけ工場」と呼ばれるようになったが、そこに目をつけたのが、全国にチェーン展開をするセンチュリーWADAの母体、株式会社和田コーポレーションだった。

和田コーポレーションは、おばけ工場をすべて買収、ここに一大ショッピングセンターを建造する計画を打ち立てた。

新聞紙上でそのニュースが報じられた時、大河内町の住民には、二つの反応があった。

ひとつは、三年間にわたって、町の美観を損ねてきたおばけ工場が、有名なショッピングセンターになることで、地域が活性化されるとする意見。

もうひとつは、そんなショッピングセンターができたら、既存の二つの商店街は大打撃を受ける。断固反対!という意見である。

当然、反対派は、二つの商店街を中心にした人々で構成されているが、大河内町は、もともと、人口の少ない静かな町だったから、センチュリーWADAの出店により、地域が騒々しくなることを快く思わない年配者も少なくない。

和田コーポレーションが、出店計画を公表してからまもなく、大河内町では、駅前通り商店街とけやき通り商店街が協力し、センチュリーWADA出店反対連盟が発足した。

会長は、けやき通り商店街組合の組合長も務める、小林古本店の店主、小林繁治である。副会長が、駅前通り商店街組合の組合長、大熊電気店の大熊源三郎。

そして、複数の役員に名をつらねるのが、ナイトウ洋菓子店の内藤作蔵だった。

センチュリーWADAの出店計画を初めて耳にした時、作蔵は、烈火のごとく怒った。おそらく、大河内町の住民で、和田コーポレーションにいちばん敵意を抱いているのは、作蔵だろう。

それで、今日四月二十一日、作蔵は、孫の健二をつれて、おばけ工場の向かいにある淀浜公園での反対派の抗議集会に参加している。

佐和子の言った「気勢を上げる」とは、そういう意味である。

「おじいちゃんは、カッとなると、見境がなくなるから。なんにもおこらなきゃいいけど、心配だわ」

やせ型の夫とは正反対の、ぽっちゃりとした体格の鈴子が、まゆをひそめながら、店先から見える春がすみの空を仰いだ。

その視線の先の青空の下で、今、まさに抗議集会が行われている。

拡声器の声は、さすがにナイトウ洋菓子店までは届かなかったが、淀浜公園は、すさまじい熱気であふれていた。

「われわれは、地域の平和を守るため、センチュリーWADAの侵略には、徹底抗戦の決意である!」

義男がふざけて言ったのと同じセリフが、会長の小林繁治の口から飛び出していた。続いて、「オオーッ!」という賛同の声が、周囲一帯にこだまする。

集まっているのは、ざっと二百人くらいだろうか?頭には白いハチマキをしめ、公園のあちらこちらで、こちらも、白の旗やのぼりが風にゆらめいている。

降参という意味ではない。全員が、命がけだという思いで、今日の抗議集会にのぞんでいる。

そして、そうした白の旗やのぼりには、「人権無視の和田コーポレーションは、この町から出ていけ!」だとか「和田コーポレーション断固排除!」といったような、過激な文字が躍っている。

「そもそも、なんで大河内町なのか?全国どころか海外にまで進出し、暴利をむさぼっている巨大企業が、なんで、われわれのような、貧しい者ばかりが住む町に進出してくる?これ以上、弱者をいじめて何が楽しいのだ?」

小林繁治の弁舌は、話が進むにしたがってなめらかになっていく。参加者の興奮も、最高潮に達しようとしている。

「そうだ!わしらは、断固戦うぞ!どんなことになっても、最後のひとりになっても、戦うぞ!」

繁治のスピーチに呼応したのは、内藤作蔵だった。今年七十三歳になるとは思えない作蔵の勢いに、参加者のいたるところから、こぶしが突き上がる。

「そうだ、そうだ!」

「やってやるぞ!」

二百人に上る男たちの怒声は、すごいものがある。みんな、旗振り役の作蔵がさけぶと、百人力を得たように、元気になってくるから不思議だ。

「おいっ、おまえたちも、さけばんかい!」

作蔵が背中をたたいたのは、小学六年生になる、孫の健二である。そのとなりにいる色黒の少年は、健二の同級生で、同じ少年野球チーム「米倉サンダース」に入っている大峰一馬だ。

「じいちゃん、なんで、おれたちまでつきあわされるんだよ?」

口をとがらせる健二の、ぼさぼさの頭へげんこつを食らわせて、作蔵は怒鳴った。

「なんだと!わしらの商店街がなくなったら、おまえも、明日からホームレスなんだぞ!」

いくらなんでも、明日からホームレスはないだろうと思いながら、健二は、げんこつのあとがかゆい頭のてっぺんをかいた。

とにかく、作蔵は、いつでも怒っている。怒っていない時でも、怒っているように見える。

作蔵の人なみはずれたバイタリティとパワーは、孫の健二から見ても、ほれぼれするほどだ。

二年前に長年つれそってきた伴侶、つまり、健二の祖母が亡くなった時だけは、さすがに落ちこんだ様子を見せたが、それも最初の一ヶ月間だけだった。

作蔵は、自らに暗示をかけて、へこたれないふりをする。そうして、ふりをしているうちに、本当にへこたれない体質になってしまう。そういう男だった。

しかし、いつまでも作蔵につきあっていたら、貴重な日曜日がだいなしになってしまうことを、健二は知っていた。

健二は、作蔵に命令されるまま、大声でさけびながら、となりの一馬に目くばせをした。

(よし、行くぞ)

(オーケー)

二人には、初めから暗黙の了解があった。

抗議集会の途中で、騒ぎにまぎれて脱出する。あとから作蔵に大目玉を食らうかもしれないが、その時はその時、とにかく、今は頑固一徹な祖父の束縛から逃れたいのだ。

抗議集会は、会長あいさつのあと、町役場までのデモ行進に移る。行動をおこすのは、今しかない。

「いいぞ、会長!」

「おれたちは、どこまでも、あんたについていくぞ!」

まわりの大人たちのさけび声で、淀浜公園は、爆発しそうな熱気だ。その熱気にまぎれて、健二と一馬は、そろりそろりとあとずさりした。

最初は、大きな声を出しながら。そして、しだいに小さくしていきながら・・・。

幸いにも、作蔵は、会長の話に気を取られて、健二たちの動きに気づいていない。素早く人ごみの中に身をかくせば、もうこちらのものである。

健二と一馬は、ニヤニヤしながら、公園の外へとかけ抜けた。足の速さでは、自信のある二人だったから、つかまる心配などしなくていい。

サラリーローンの違法チラシがベタベタとはられた、木の電信柱のかげにかくれて、うまくいったと、二人して大喜びだ。

「ずいぶん、かんたんに抜け出せたなあ」

一馬が言えば、健二も、

「じいちゃん、小林のおっちゃんの話に夢中だったからな」

と、笑いをかくしきれない。

「でも、おまえ、家に帰ったら、あとで大目玉だぞ」

「知るかよ。げんこつひとつですむなら、お安い御用だ。おれの頭のかたさ、おまえ、わかってねえな」

健二と一馬は、もの心がついたころからの幼なじみで、どちらも野球が大好き。勉強の方はともかく、スポーツは万能で、おたがいに親友でもありライバルでもあった。

米倉サンダースでは、バッテリーも組んでいる二人が、抗議集会を抜け出してやることといえば、野球だけである。

彼らの不満は、作蔵につきあわされたおかげで、今日のリトルリーグの練習試合に参加できなかったことだ。

一日練習を休めば、その分を取り戻すのに、三日はかかる。特にピッチャーの健二は、その苦労がわかっていたから、なおさら、抗議集会から抜け出したかったわけである。

「今、家に帰るわけにはいかないからな。今日は、おまえのグラブを貸してくれよ」

健二の提案で、二人は、まず、一馬の自宅である理髪店「バーバー大峰」に向かうことにした。そこでバットやボール、グラブは調達できる。これから場所を変えて、ピッチングとバッティングの猛特訓だ。

淀浜公園では、最後の勝どきがはじまっていた。その声をしり目に、健二と一馬が走り出そうとした時だった。

「あなたたち、六年生?」

なんとも高飛車な調子の声に、二人は行く手をさえぎられた。

顔を上げると、色白で髪の長い少女が立っている。その、背筋をピシッと伸ばした立ち方が、これから剣道の試合でもやるか、というようなすきのない様子で、健二と一馬は、思わず息をのんだ。

「なんだ、おまえ?見かけないやつだな」

あっけにとられた健二が、ようやく言葉を返すと、少女は目じりをきつく上げて、さらにたずねてきた。

「聞いているのは、わたしよ。あなたたち、六年生なのかって」

初対面にもかかわらず、ずいぶん、えらそうな態度で向かってくる相手である。

見たところ、健二たちと同じ年ごろのようだが、学校で会ったことはない。健二も一馬も、初めて見る顔だ。

「六年生なら、なんだって言うんだよ?」

今度は、一馬がたずね返すと、少女は、ニヤリと笑うような顔をして言った。

「わたし、この町に引っ越してきたの。もしかしたら、あなたたちと同級生かもしれないと思ってね」

そう言うからには、少女も六年生なのだろうが、彼女には、子供らしいはにかみや、あどけなさがまったくない。それどころか、健二たちを上から見下すような、ふてぶてしさを持っている。

そして、そんな少女の印象をより強くしているのが、彼女が、だれから見てもそれと思える、美人だという点だ。

かわいいというよりは、美しいという感じ。背も高くて、何か信念を持ったような、きりりとした目もとや口もとが、ずいぶん大人びて見える。

少女は、ぽかんと口を開けたままの健二と一馬を、勝ち誇ったようにながめていたが、何を思ったか、急に背を向けて立ち去りはじめた。

自分から話しかけてきたくせに、こんな連中を相手にしていてもしかたがない、とでも言いたげな様子だ。

ところが、数歩進んだだけで、はたとふり返った。

「わたし、上条美雪。父さんの仕事の都合で、東京からやってきたの。父さんは、センチュリーWADA大河内町支店の副支店長になるのよ。ここでは、反対運動が盛んだって聞いていたけど。でも、あなたたちみたいな人が加わっているようじゃあ、この運動も、すぐにつぶれてしまうわね」

少女の稲妻のような一言に、健二と一馬の頭の中は、まっ白になった。理由はわからないが、自分たちに、ケンカをふっかけているとしか思えない。

「おいっ、おまえ、何様のつもりだよ?」

ふつふつとこみ上げてきた怒りのままに、健二が怒鳴ってみても、少女は、まるで無視である。今度は、ふり返ることなく、人ごみの向こうへ消えてしまった。

なんだか、不意打ちを食らったような気がする。試合早々、ストレートを浴びて、体力は残っているのに、ふらふらしているボクサーのようなものだ。

「なんなんだよ、あいつ?」

鼻息の荒い健二の愚痴に、一馬も相づちを打った。

「引っ越してきたって言ってたな。六年生なのか?ほかのクラスに転校生いたっけ?」

「知らねえ。それとも、これから転校してくるってか?あんなやつが」

どうにも、腹の虫がおさまらない。

上条美雪。健二の頭に、これほど強烈に名前を植えつけていった者はほかにいない。

いったい、どういうわけで、美雪は、健二たちに声をかけてきたのだろう?

父親が、和田コーポレーションの重役だと言っていたから、反対派の抗議集会に参加していた健二たちが、許せなかったのだろうか?

それとも、こそこそと抗議集会から抜け出そうとしている、同じ年ごろの男子を見て、情けなく思ったのだろうか?

淀浜公園では、抗議集会が終わり、これからデモ行進に移ろうとしている。

「健二!健二は、おらんのか!」

人ごみの向こうから、作蔵の恐ろしいがなり声が聞こえてきた。われに返った健二と一馬は、歩道の縁石に危うくつまずきそうになりながら、どうにか、抗議集会の集団から抜け出した。

 

×    ×    ×

 

窓から差した日の光が、花びんに生けられたカスミの花の影を、健二の机に映していた。

ついこの前までは、暖かく心地よかった太陽も、近ごろでは、もう、いやがらせのような暑さを感じさせる。

朝礼がはじまる前の六年三組の教室は、活気にあふれていた。ここには、健二と一馬がいる。そして、二人の幼なじみである青嶋若菜がいる。

「おはよう、健二。あんた、また、おじいちゃんに怒られたって?」

いすの上にあぐら、腕組みをしてふくれっつらの健二に、若菜の容赦ない言葉が飛んできた。

「なんだよ。ずいぶん情報が早いじゃんか」

「今朝、鈴子おばさんから、うちの母さんに電話があった。抗議集会、抜け出したんだってね」

「くそうっ、一発だと思ってたら、三発も頭にげんこつだぜ。優秀な孫の頭がおかしくなったら、どうするつもりなんだ?」

「アハハ、あんたの頭、よくなることはあっても、それ以上、おかしくなることはないから、だいじょうぶだよ」

若菜は、ショートカットにしたやわらかそうな髪を、さわさわとゆらしながら笑った。ほかの相手だったら、バカにされてだまっていない健二も、若菜にだけは、ちょっと言い返せないでいる。

若菜は、ナイトウ洋菓子店やバーバー大峰と同じ、けやき通り商店街にある青嶋酒店のひとり娘だ。

幼いころから、よく健二や一馬と遊び、ケンカをしてきた。家族同士のつきあいも深く、そのため、おたがいの家でおこったことは、すぐに筒抜けになってしまう。

若菜は、登校したら、まっ先に健二をからかうつもりでいたのだろう。彼女のかげにかくれるようにしている、川森薬局の川森恒子をふり返って、快活に笑い続けた。

「アッハハハハ!ねえ、恒ちゃんも、おかしいでしょ?」

「若菜ちゃん、そんなに笑ったら、健二くんに悪いよ」

「何言ってんのよ。健二は、いつだって、笑われるためにいるようなやつだから、かまわないよ」

若菜は、色白でメガネっ子の恒子を、いつも従えている。恒子も、若菜の竹を割ったようなさっぱりとした性格と、その勢いに押されるようにして、若菜にくっついてまわっている。

もっとも、ともすれば、クラスメイトからいじめられそうになる、もの静かでひ弱な感じの恒子には、若菜がいちばんの頼りなのだろう。

事実、四年生まで、別のクラスでいじめを受けていた恒子は、五年生になり若菜とクラスメイトになってからは、だれからも、いじめられることがなくなった。

若菜は、どこか健二と似たところがあり、女子の間でも、一目置かれる存在だ。運動神経は抜群、勉強の成績だってかなりのものだ。その上、男子もたじろぐほど、ケンカが強いときている。

だから、若菜に面と向かってもんくを言える者は、ひとりもいない。

「よお、健二。おまえ、やっぱり、じいちゃんからなぐられたって?」

今度は、一馬がやってきた。

若菜と同じ調子で言うなよと、健二が言いかけた時、一馬のうしろから走ってきた二人の少年が間に割りこんだ。

ひとりは、やはり、健二のクラスメイトで黒縁メガネの秀才、増田弘樹。もうひとりは、大きな体だけが取り得の島村満久である。

「大変だよ。転校生がやってきたよ!」

太った体でハアハアと息を切らせながら、満久が、まっ赤な顔をして騒ぎたてた。

「今、職員室で岡村先生と話してる」

いつもは、とっちゃんぼうやのような、変に大人びた話し方をする弘樹も、いささか興奮した様子である。

健二と一馬は、顔を見あわせた。

転校生と聞いて思い浮かぶのは、当然、上条美雪の顔である。ちょっと、その辺にはいない美人の美雪を見たとあれば、弘樹と満久の動揺も、わからないではない。

逆に二人の反応から、健二と一馬は、転校生が美雪であることを確信した。まさか、自分たちのクラスにやってくるとまでは、思っていなかったが。

チャイムが鳴り、担任の岡村史明先生が、上条美雪をつれて入ってくると、教室は、大きなどよめきに包まれた。

「みんな、静かに。早く席について」

髪をスポーツ刈りにした、岡村先生の少しハスキーな声が、教室にひびきわたった。

岡村先生は、二十代後半という、大河内町小学校ではいちばん若い先生だが、ほかの男の先生にくらべ温厚で父母からの評判もよい。

そのせいか、男子女子を問わずクラスでも人気があって、休日に、新婚ほやほやのアパートへみんなで遊びに行ったなどという、女子のグループもあるくらいだ。

岡村先生は、某有名大学の大学院を卒業しているらしく、やがては県の教育委員会に引っぱられるのではないかとの、もっぱらのうわさだった。つまり、エリートコースまっしぐらというわけである。

秀才の増田弘樹なんかは、岡村先生にあこがれて「ぼくも、岡村先生と同じ大学院まで行って、先生のようになるんだ」なんて、親が泣いて喜ぶようなことを、しばしば口にする。

実際、健二も、岡村先生のことはきらいではない。

しかし、その岡村先生の顔にも、今日だけは、かすかな緊張感があるのを、健二は見逃さなかった。それも、そのはずである。転校生が、あの上条美雪なのだから。

大河内町では、センチュリーWADAの出店を問題にしているのは、大人の世界に限ったことではない。家に帰れば、親の口からセンチュリーWADAの話が出ない日はないと言っていいくらいだ。

だから、和田コーポレーションの重役を父親に持つ上条美雪が、クラスに波紋を広げるであろうことは、だれの目にも明らかだった。

「みんなに、転校生を紹介しよう。東京からやってきた、上条美雪さんだ。上条は、お父さんのお仕事の都合で、今日からこのクラスの一員になった。みんな、仲よくするように。上条、おまえからも、自己紹介をしなさい」

先生からうながされた美雪は、半歩前に出て、「仲間」と書かれた半紙がうしろの壁いっぱいにはりつけられた教室を、じろりと見わたした。

その時、健二や一馬の存在にたしかに気づいたようだったが、美雪は、まったく知らない顔をして、よく通る高い声で話しはじめた。

「上条美雪といいます。よろしくお願いします」

美雪は、たったそれだけを言って、ペコンと頭を下げた。

昨日の淀浜公園での一件を経験している健二と一馬にしてみれば、なんとも拍子抜けなあいさつである。

美雪のことだから、きっと、みんなの見ている前で、「自分の父親は、和田コーポレーションの重役で・・・」という例の話をぶち上げるのかと思っていた。

ところが、彼女は、そんなことには何も触れず、自分自身のことについても、いっさい口に出さなかった。

クラス中がどよめく中、美雪は、学級委員長でもある増田弘樹が用意した、教室のいちばんうしろの席にひとりですわった。となりには、だれもいない。

「来週、席替えをするから、悪いが、それまでがまんしてくれ」

そう美雪に話しかける岡村先生の表情にも、ほっとした様子がただよっていた。とりあえずは、順調なスタートが切れたと思っているのだろう。

 

美雪は、先生の前では、実におとなしい素直な子だった。

一時間目の算数の授業で先生に指されると、だれにも解けなかった問題を、黒板の前に出てスラスラと解いた。みんなから驚きのどよめきがおこると、「前の学校の授業が、少しだけ早かったから」と、ひかえめなコメントをして、また、自分の席に戻った。

岡村先生が心配したような事態は、何もおきないまま、最初の授業は進み、やがて、一時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。

「二時間目は、理科だからな。増田、実験機材を持ってくるから、ちょっと手伝ってくれるか?」

大好きな岡村先生から頼まれた弘樹は、うれしそうに、先生のあとについて教室を出て行く。

本当に何事もなかった・・・。

そう思いながら、健二が美雪の方へ目をやると、すでに彼女のまわりには、何人もの女子の取り巻きができている。

どうやら頭もいいようだし、顔も美人とくれば、人気が出るのは当然だと思ったが、騒動は、この時になっておこったのである。

「ねえねえ、東京のどこからやってきたの?」

「この学校に転校生がやってくるなんて、本当にめずらしいのよ」

「田舎だもんね。お父さんって、どんなお仕事してるの?」

取り巻きから次々と質問を浴びせられた美雪は、ニコニコと笑いながらこう言った。

「そっか、まだ、うわさ広まってないんだ。わざわざ、自己紹介しなくてもいいようにって、がんばったんだけどな」

一瞬、教室にいた全員が、キョトンとした顔になった。

美雪の雰囲気が、微妙に変化したと思ったのは、健二だけではなかったはずだ。そして、美雪は、この瞬間を楽しんでいるかのように言葉を続けた。

「わたし、父さんの転勤にあわせてやってきたの。父さんは、センチュリーWADA大河内町支店の副支店長になるのよ」

健二は、思わず息をのんだ。

やっぱりだ。やっぱり、こいつは例の話をぶち上げてきた。

美雪は、岡村先生がいなくなり、クラス中のみんなから注目を受けている、この瞬間をねらっていたにちがいない。

「こっちに来てから、同じ年くらいの子を見つけては話しかけてきたのに、ちょっと、がっかり。男の子って、意外と無口なのね」

美雪は、あ然としている取り巻きをよそに、突然、健二の方へふり返った。たいていのことでは驚かない健二も、この時ばかりは面食らった。

「あんた、あの子のこと知ってたの?」

取り巻きには加わらず、健二のそばにいた若菜が、ちょっと詰問するような調子で言った。

「まあな。昨日の抗議集会を一馬と抜け出した時、あいつの方から話しかけてきた」

美雪は、健二をじっと見ている。その目を見ているうちに、健二の頭に、自分たちをバカにした昨日の美雪の顔が、ありありと思い浮かんできた。

「言っとくがな、この町に住んでるやつらは、ほとんどが、おまえのおやじのいる会社が大きらいなんだ。おれの家族もそうだ。それに、おれもな」

健二は、昨日の仕返しとばかり、強い調子で言いはなった。さすがの美雪も、真正面からきらいと言われれば、こたえるにちがいないと思った。

ところが、美雪は、鼻で笑うように、「そうね。当然だわ」と、健二の言葉をかるく受け流した。あまりにもかるくやられたので、逆に、健二の方が気持ちをそがれてしまった。

みんなが戸惑いをかくせないでいる中、美雪だけは、まったく自分のペースをくずさない。さっきにくらべ、どん引きしている取り巻きに向かって、屈託なく言葉をかけている。

昨日と同様、言いたいことだけ言ったあとは、健二のことなど完全に無視と決めているらしい。

「あいつ、ハンパじゃねえな」

ことの成り行きを見守っていた一馬が、健二のそばまで来て言った。

「ぼくもそう思う。ハンパじゃないよ」

島村満久も、自分の席から大きな体をゆらしてやってきた。一馬はともかく、満久は、本当に事態をわかっているのかいないのか、あやしい笑顔を浮かべている。

まもなくして、岡村先生が、弘樹とともに理科の実験道具を抱えて教室に戻ってきた。二人とも、たった今おこった空気の変化に、まるで気づいていないようだ。

弘樹は、先生の机の上に実験道具を置くと、いそいそと美雪のところへ近づいていった。

「やあ、君、成績いいんだってね。ぼく、勉強、教えてもらえる人が来てくれてうれしいよ」

みんなの冷たい視線の中、弘樹は、ここぞとばかりに転校生のよいしょをやっている。

学級委員長として、少しでも早く、転校生に親しんでもらいたいと思っているのだろうか?

「相変わらず、空気の読めないやつだな・・・」

健二の舌打ちに、若菜と一馬がうなずく。

そして、岡村先生に正体を気づかれることなく、美雪の二時間目の授業は、はじまった。